漫画家入門

第7回 結婚とジョブチェンジと茨木

2018年9月12日~9月18日

浅野さんが婚姻届を提出した日の日記です。

9月12日(水)

 すっかり日が空いてしまった。ぽっかりと抜け落ちたこの1カ月の間に僕が何をしていたかと言うと、主には慣れないアプリ漫画の週刊連載に奔走していたのだが、日記が中断していた理由は他にもある。ひどく落ち込んでいた。
 今までも比較的穏やかな潮の満ち引きの中に、数年おきの大波がやってくることはあったのだが、それらは大抵外的要因があり、やり場のない怒りは見知らぬ海なり空なりに打ち上げる気力さえ回復できれば平常運転に戻すことができた。しかし今回は質が違う。
 具体的に何かと言うと、仕事に対する自信の喪失だった。誰のせいでもない。自分が描くものに対する疑念が拭えず、漫画家を辞める辞めないの葛藤しているうちに、自死が頭をもたげるようになった。十代の頃からそうした想いにとらわれて逡巡することは何度もあったが、そのたびに全方向に顰蹙を買うような無茶苦茶な漫画を描いてから死ねばいいと言い聞かせて、鬱屈のほとぼりが冷めるのを待った。しかし今回はそういうわけにもいかない。
 そんなことを悶々と考えているうちに、自分が死んだあとのことを考えるようになった。自分が死ぬことをあざ笑う人間が少なからずいることは容易に想像できたが、そんなことはもうどうでもいい。もっと実務的なことが問題だ。自分の著作物の管理、資産の相続。もしくは猫。ロックマンが死ぬときのように、自分と自分に関連するものすべてが僕の死亡とともに木っ端微塵になってくれれば話は早いのだが、現実はそうもいかない。僕は独身であるから当然両親が引き受けることになるのだろうが、それはどうしても気が引けた。親に恨みはないが、どうも分不相応に感じる。両親の、実に親世代らしい期待を尻目に、見事な逆方向の舵取りで生きてきた自分の末路がスタート地点に逆戻りでは死んでも死にきれない。そう考えているうちに、一つ閃いたことがあった。結婚すればいいと。

 翌日には彼女の自宅を訪れそのことを伝えた。先月の彼女の誕生日に何か欲しいものがあるか訪ねた際、冗談交じりに「婚姻届!」と言っていたので、そう悪い気もしないだろうと予想していたのだが、意外にも困惑の表情だった。「混乱している」と彼女は言ったが、それは察するに余りある。確かに「資産管理のために結婚してくれ」は不躾だったかもしれない。しかし結婚の動機は人それぞれだろうが、自分の場合は愛情や「添い遂げる」といった気持ちでは結婚の理由にならない。他人でも成立する関係性ならば他人のままでいい。これまでずっとそう考えてきたが、今回は条件が揃った。
 彼女は終始訝しげな表情だったが、一応の了承を得てその日は彼女の家をあとにした。後日、事実婚の選択肢も提示されたが、その場合は相続に遺言などの一手間があるので除外した。彼女が最後まで気を揉んでいたのは、苗字の変更による各種名義変更の面倒さだったようで、とうに世の中は夫婦別姓になっていたと思い込んでいた僕は驚きながらも同情した。

 以上が2週間ほど前の話だ。いま彼女の手元には記入済みの婚姻届がある。彼女的には縁起の良い日であるらしい明日、役所へ提出する手はずだ。今日は平常通り、スタッフの蘭ちゃんと栗原君とともに件のおもしろアプリ漫画の作画を進めていた。そんな折、夕方過ぎに父親から着信があった。両親からの連絡は年に一度あるかどうかの頻度だが、偶然にもほどがあると思いながら電話に出た。なぜなら僕は彼女を両親に紹介していないし、結婚報告もするつもりはなかったからだ。特に用はないがなんとなく電話したと言う父親は、僕が結婚のことを切り出すと途端に無口になった。やがて語気が荒んできて、「そんなのおかしいだろう」「親を馬鹿にしている」と騒ぎ出した。努めて理路整然と話す僕の話し方も癪に触ったのかもしれない。
 前回の結婚も同様で、婚姻届を出してから数カ月後、母親から別件で電話があった際の、ついでの事後報告だった。式はしない、親戚付き合いもするつもりはないので僕はそれで十分と考えていたが、それは両親ともにかなり不服だったらしく、多少の言い合いになり、しかし最終的には済んでしまったことだからとうやむやになった。しかし今回は違う。婚姻届を出すのは明日なのだ。父親は「認めない」などと言い出す。もともと許可をもらう必要はないので、向こうの言い分は無視してもいいのだが、僕が「もう切るよ」と言っても切らせてくれない。
 18歳で上京して以降、身の振り方は自分で決めてきた。両親には学費以外、極力手間をかけさせないように努めてきたつもりだ。これまでどうにかやってこれたのだから信頼してくれと僕が言うと、父親は「そこそこ売れたのかもしれないが、お前離婚しただろう」としゃくるような言い方で煽ってきた。「そこそこ売れた」という言われように正直カチンときたが、それ以上に昨今これだけ当たり前になった離婚を人生最大の汚点のように認識している父親に辟易し、その後激しい言い合いになった。
 話のくだりで僕が「どうにかなるよ」と言ったとき、父親が突然「どぉ〜に〜かなるのよね〜」と知らない懐メロのような歌を歌い出した。明らかに酒を飲んでいる。父親は普段寡黙だが、鬱積した感情を発散させるような酒の飲み方をする。酒飲み自体は嫌いではないが、そういう自己表現しかできない父親の姿を見るとひどく嫌悪を感じる。だから僕は酒を飲まない。
 僕が「お酒飲んだ?」と聞くと父親は「飲んでない」と言う。そんな訳はないので「お前酒飲んでんだろ!」と強く言うと「一杯だけ飲んだ」と白状した。話にならないので母親に電話を代わってもらった。
 母親は父親と比較すると話は通じるのだが、それでもこんな突然の報告ではその結婚に納得ができないと言う。電話越しに父親の「だめだ!」という遠吠えが聞こえる。気が滅入ってきた。ここで話がいかような結末を迎えようと、明日婚姻届を提出することには変わりがないのだ。不毛に感じた僕は母親に「父親がその無礼な態度を改めないかぎり、もう会うことはない」と告げて電話を切った。自分の言い分もずいぶん身勝手だが、もうそれでいい。
 仕事部屋に戻ると、いつもと変わりなく蘭ちゃんと栗原くんが作画作業をしている。僕は空いた席に腰を下ろし、ため息をつくしかなかった。

 

9月13日(木)

 婚姻届の提出のために区役所に来ていた。昼の待ち合わせの時刻は過ぎていたが彼女は遅れているらしく、僕は喫煙所でタバコを吸いながら待っていた。その狭い喫煙所の中では区役所職員であろう年配の男性二人が、先日のアップル新製品発表会を受け、「あんな高いもの誰が買うんでしょうね」とアップル信者のへのdisを繰り広げており、その横で僕はiPhoneXを片手に例のアプリ漫画のコメント欄を読みながら時間を潰していた。
 喉が痛んできたので外のベンチに場所を移し、再び彼女を待った。すると突然「浅野さん?」と声をかけられた。顔を上げると、先日の戸建て購入を仲介してくれた不動産会社の担当者だ。おそらく不動産関係の書類を取りに来ていたのだろうが、「こんなところで何してるんです?」と聞かれ、僕は少し躊躇したあと、「結婚することになりまして」と言った。家の購入の際、「結婚の予定はないんで」と説明し、お互いに終始奥歯に物が詰まったような雰囲気で権利書やローンの手続きを行っていたので、自分の風見鶏加減に少し恥ずかしくなった。「おめでとうございます」と言葉を残し、その男性は去って行った。これまでもこの結婚のことは、スタッフや大学の友人とFPSのオンラインゲーム中に話したりはしていたが、おめでとうと言われたのはこれが初めてだったように思う。
 ほどなくして彼女が到着した。区役所の広場で合流したのだが、白昼に二人で行動することは珍しいような気がして、彼女の顔をまじまじと見てしまった。本人的にその髪色は不満らしいが、毛先がサイケデリックな青緑に染まっている。役場にはおよそ不釣り合いな風体だが、僕はたいそうイケてると思った。区役所の施設内に入り、婚姻届の空欄になっていた僕の記入欄に記入を済ませると、僕はまんまと自分の住所を書き間違えていて修正を余儀なくされたが、それ以外は滞りなく受理された。
 帰り際、休憩に区役所内の古ぼけた喫茶店に入った。僕は安っぽいグラスに入ったアイスコーヒーを飲みながら、昨日の父親との電話のことを伝えると、彼女は「ほらやっぱり」と呆れ顔だ。親への挨拶は不要と言い張っていたのは自分なので、何も返す言葉はなかったが、彼女に余計な面倒はかけまいという配慮が、余計に面倒を増やしてしまったようだ。両親へ手紙を書くと言い出した彼女に僕は強い抵抗を感じたが、「任せる」と言ってその話は終わりにした。
 前回の結婚もそうだったが、今回も輪をかけて感慨が湧かない。別段嬉しさもなかった。現状は別の家で暮らしているし、今日もお互いの仕事場へ帰路につく。変化があったとすればそれは極めて書類上の出来事だ。しかし今後は他人からの扱われ方が変化していくのだろうし、こと薄い関係の人ほど特に顕著なのだろう。
 いずれにせよ彼女は妻になった。だから今後の名称は妻とする。これは「ファイナルファンタジー」で言うところの「戦士」が「魔法戦士」にジョブチェンジしたときと同じようなニュアンスで、彼女や妻といった呼び方はあくまで便宜的な呼び名だ。僕にとって鳥飼茜はこれまでもこれからも鳥飼茜でしかない。

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