漫画家入門

第8回 トレンドワードと背景論争と両親

2018年9月25日~10月3日

両親との顔合わせの回です

9月25日(火)

 今日は誰に起こされるわけでもなく、自然に目が覚めた。iPhoneの時計を確認すると午後2時を過ぎていて、ゆかちゃんに起こしてもらうはずの時間はとうに過ぎている。おおよそゆかちゃんは下の階のスタッフ部屋でまだ寝ているのであろうが、それもそのはず、ついさっきの昼前までゼルダで遊んでいたのだから、こうなることは予想していた。僕も原稿作業をしながら横目でゆかちゃんがゲームを遊び終えるのを見ていたのだから、もう少し眠りこけていてもいいようなものだが、僕のほうが先に起きてしまった。長時間眠ることができなくなっているのは歳のせいもあるのかもしれない。寝るにも体力がいる。起きぬけは大抵苦しい。
 今年の秋に発売を予定している短編集の修正作業に追われていた。以前に出した短編集以降、約8年の間に方々の雑誌で描いた読み切りをまとめたものだが、8年も経てばずいぶん絵も変わる。直し始めたらきりがないので、修正は最小限にとどめたつもりだが、それでもある一編の読み切りの仕上げを丸々やり直す羽目になった。概算してまる4日はかかる作業量だ。原稿の修正は後ろ向きな作業だからあまり楽しいものではない。しかし必要だからやる。
 起きぬけのふらついた足で自分の席に座り、パソコンのブラウザを覗く。僕の度を超えたエゴサーチ癖は、ほぼ24時間監視体制と言っていいのだが、その検索ページの右側にはそのときのSNS上のトレンドワードランキングが20位まで表示されている。テレビを観ない自分にとって、そのトレンドワードが最もリアルタイム性の高い情報源だ。本来の目的とは違うが、結果的に欠かせないものとなっている。ミサイルが飛べばミサイル、地震が起これば地震がトレンドの1位になる。重要性の確度はなかなかのものなのだ。しかし実際は普段それほど重要なニュースがあるわけはなく、昼間はソーシャルゲームのアップデート情報、夜はテレビ関連のワードがランキングを占める。おかげで顔の知らないタレントや二次元キャラの名前だけはやたらと知っている。しかし今日は少しわけが違った。
 トレンドワードの10位ほどに、自分の名前がランクインしているのが目に入った。普段見慣れない人物がトレンドに入るときは、大抵は訃報か逮捕か炎上だ。一瞬焦った僕は火のついたタバコを持った手でもう一本のタバコに火をつけたが、落ち着いてネットの記事を読んでようやく事を理解した。妻が出版した日記の発売に合わせた結婚報告がネットのニュースになっていたのだ。自分はそれに巻き込まれたかたちである。漫画家の結婚などというニュース性の乏しさに赤面しそうになり、数十万人の「誰?」が脳裏にこだました。しかも記事の文面にはどこにも「再婚」の文字がないので、基本的には手放しにお祝いムードだ。しかし自分のエゴサーチのタイムラインには「私の大好きな鳥飼先生が、鳥肌が立つほど嫌いな漫画家の浅野いにおと結婚した」と流れてくるので、瞬間的に血圧が10倍になり、心の中で「一言多いわボケ!」「鳥で韻を踏むな!」と叫んだ。10分ほど呪いの呪文を暗唱し、今日はよほどニュースがなかったのだなと自分に言い聞かせることにした。ちなみにこの時のトレンドワード1位は「貴乃花親方引退」である。
 ゆかちゃんが寝ぼけ眼で起きてきたので、僕は愚痴るようなかたちでこの一件を報告した。すると極めて興味のなさそうなリアクションだったので、話は早々に切り上げ、平常の作業に戻ることにした。普段ほとんど使わないラインに異常な数の通知が来ていたので、方々の知り合いに順に返信する。こちらの気持ちは複雑だが「おめでとう」と言われれば「ありがとう」と返さざるを得ない。そうしているうちに妻からメッセージがきた。
リフォーム業者との打ち合わせの日取りの相談だった。妻も自分がネットで話題になっていることは重々承知であろうが、あくまで平静を装う腹づもりらしい。僕もそれに応える形で淡々と返信した。
 ゆかちゃんが帰り日付が変わる頃、今度は妻から着信があった。着信を受け、話を聞いてみると、妻の名前が「Googleの検索ワードで1位になった」のだという。なんと言っていいのかわからないので、僕はとりあえず「よかったね」と伝えた。いつもはネット文化に関心のない妻だが、さすがに今日は気が気じゃなかったようだ。しかし本題は別の話題だった。来週、僕の両親と会う約束をしているのだという。
 先日妻が僕の両親に宛てた手紙をきっかけに、僕の知らないところで双方が連絡を取り合っていたようだ。ああ面倒臭い。僕は目眩がした。来週の水曜日、昼に新宿で落ち合い食事をするのだと妻は説明してくれたが、3名で予約をしていると言う。「俺は行かなくてもいいってこと?」と僕が聞くと「来てくれるなら助かるけど」と妻は言った。初対面同士の上滑りな会話を聞かなくて済むならそれに越したことはないのだが。いや、しかし。とても悩む。

9月26日(水)

 夕方、小学館のロビーに到着した。待ち合わせの時間の20分ほど前の到着だったが、これは遅刻癖のある自分にとってはかなり珍しい。なぜなら今日の目的は対談であり、対談相手は自分よりはるかに先輩のベテラン漫画家だ。小学館では去年ごろから漫画家を特集した「漫画家本」なるものが次々と刊行されていて、自分の特集本も近いうちに刊行予定となっている。特集内容はインタビューや他作家の寄稿イラストなど多岐に渡るが、恒例として対談記事が含まれることも多い。それに従って対談したい相手がいるかどうかと聞かれていたのだが、如何せん僕は対談が苦手だ。経験上僕は対談相手の著作物を相当に熟知していないと平易なおべんちゃらばかりになってしまう。だから極力対談の依頼があっても避けていたのだが、今回は僕から指名できる。断られる可能性もあったが、もしその場合は対談記事はなくても構わないとさえ思っていた。それほどに自分にとっては念願の、そして重要な対談だった。
 対談相手とは数年前にTwitter上で一悶着あったことがある。「背景論争」などと呼ばれているようだが、要するに写真を利用したデジタル処理によって作られた漫画の背景の是非についての議論だった。その議論のきっかけをつくったのが、その写真的な背景に懐疑的であった対談相手のツイートであり、デジタル背景を使った漫画家の代表例として挙げられたのが僕だったのだ。
 デジタル背景に関してはそれよりも以前から散々「手抜き」と批判されていた。それを受けたうえで僕は、決して手抜きではなく、むしろこの手法だからこそ成立する漫画を描いてきたつもりだったので、議論自体は今更に感じ興味がなかった。それよりも気になっていたのは、ここぞとばかりに尻馬に乗り持論を展開する外野の存在だった。努めて冷静な議論をしようとするアカウントもある傍、本題から脱線し、果てには当事者そっちのけで日頃の鬱憤を晴らすかのような発言も多く見て取れた。そしてそれらを「議論」としてまとめる者。その流れは非常に白々しく、ただの語りたがりによるSNS上の議論などというのは、おおむね下手な悪感情を引き起こすだけで、無責任で不健全なものだとそのときに感じた。おそらく面と向かって話したほうが、よほど面白い話になるだろう。話が長くなったが、それを今回の対談で証明したかったのだ。
 ロビーで漫画家本の担当者に迎えられ、待ち合わせ用のブースに通された。担当者は緊張している様子だったが、これから喧嘩が始まるとでも思っているのだろうか。しばらくして対談相手の氏が到着し、簡単な挨拶のあと、対談が始まった。
 実際どのような対談になったかは漫画家本を確認してほしい。現状ではどう活字に起こされるのか確認するすべがないのだが、きっと面白い内容になっていると思う。少なくとも僕は楽しかったし、よく笑った。対談を終えたあと、やたらと高級そうな中華料理屋で食事をしたのだが、そこで聞いた話はさらに輪をかけて面白かった。もちろんそこは活字になることはないし、ましてやTwitterで呟くこともない。
 帰り際、タクシーに乗って帰る氏を見送る際、握手を求められたので僕は喜んで返した。兎にも角にも、禊は終えた。

 

10月1日(月)

 月曜日。週末に泊まりに来ていた妻が出かける支度を終えると同時にチャイムが鳴った。珍しく時間通りにやってきたゆかちゃんと入れ違いで妻は仕事場に戻っていった。
 先週から続けていた短編集の修正作業をほぼ終え、そのままの勢いでこれまたこの秋に刊行予定の『勇者たち』という単行本の修正作業も終わらせた。一仕事を終えてしまった僕はすっかり気が抜けてしまい、ガンプラのレビューサイトなどをぼんやりと5時間ほど覗いていたが、日付が変わるころにいよいよ暇を持て余し、僕はゆかちゃんをドライブに誘った。
 僕の車は古い型のせいか、販売業者から劣化防止に最低週一は運転するようにと言われている。出不精でせっかく買った車を遊ばせがちな自分にとって、強制的に運転しなければならない用があるのは願ったり叶ったりなのだ。しかし肝心の目的地が思い浮かばない。
 これまで都心に向かって走ることが多かったので、反対方向へ走ることにした。世田谷通りを狛江方面へ。初めての道は緊張する。さらにパトカーを見かけるとより緊張する。警察は日常、自分の味方であってほしいが、車に乗っているときは途端に敵に変貌する。僕は自分に集中を促すため、交番や警察官の横を通る際は必ず「ポリスだ!」と言うようにしているのだが、隣に座るゆかちゃんは我関せずとスマホをいじっている。
 結局、小田急線の和泉多摩川駅近くの駐車場に車を停めた。この周辺なら多少土地勘がある。10年以上前に描いた『ソラニン』という漫画はこの駅周辺が舞台で、何度も資料写真を撮りに来ているのだが、深夜に訪れたのは今日が初めてだった。土手沿いを歩いたが思った以上に街灯が少なく、人気もないので寂しい。夜露に濡れた芝生に足を取られながら多摩川の川べりに向かうと、対岸の登戸駅のほうがいくらか明るく、ラブホテルの看板が強烈な存在感を放っていた。この場所は東京と神奈川の境でもあるので、こっち側と向こう側、という意味合いを感じていたが、それも今は昔。川は川だし、どっち側もただの日本だ。踵を返し、再び土手のほうに向かった。途中、『ソラニン』のカバー写真に使った撮影地点を通ったので、僕はゆかちゃんに「ここソラニンの表紙のとこだよ」と説明したのだが、「へえ」と興味なさげだ。ゆかちゃんはあまり『ソラニン』は好きではないらしい。僕は急に恥ずかしくなった。
 駐車場の車内で二人でタバコを吸い、帰路についた。開けた窓から入って来る風が少し冷たい。今年の猛暑が嘘のようだ。帰りの道すがら、ゆかちゃんの連載準備の進捗について聞いた。相変わらず連載の開始時期は決まっていないというが、おそらくそう遠い話ではないだろう。僕は今年の年末から来年にかけて忙しくなることが予想されるので、スタッフからゆかちゃんが抜けてしまうと大打撃なのだ。場合によっては万全を期すために新しくスタッフを探し始めなければならない。「連載決まったら早めに教えて」と釘を刺すとゆかちゃんは、「浅野さんが一番忙しいときに辞めてやりますよ」などと言う。なんでそんなに意地悪なんだろう。
 車を走らせている間に夜が白んできた。また朝になってしまった。

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