ちくま文庫

喚起する文体、贈りたい欲望

平松洋子『買えない味3 おいしさのタネ』解説

平松洋子さんの「dancyu」人気連載「台所の時間」をまとめたエッセイ集『今日はぶどうぱん』が『おいしさのタネ』としてちくま文庫に収録されました。解説は三砂ちづるさんにお書きいただきました。ご覧ください。

 ジュネーブに出かけた帰りのフライトで、この本を読んでいた。私はずいぶんおいしいものを食べていたのだ。サラダ、スープ、チーズ、パン、キッシュ。スイスの名家に嫁いだ、スペイン人の友人は、ジャン= ジャック・ルソーも住み、かのカルヴァンも説教をしていた、という教会の、すぐ近所に住んでいる。その建物に、婚家の家族は何世紀にもわたって住んでいるのだ。「結婚した時はね、シンデレラみたいな気分になったわよ、ちょっと。もう慣れたけどね」という、スペインは、プロレタリアート階級出身の友人は、スイスのお姑さんからもらったというナポレオン三世由来のネックレスが、どこに行ったかわからなくなっていることに、結構、狼狽していた。ナポレオン三世由来のアクセサリーが、フランス、ベルギー、スイスを経て、スペイン人の友人の手に渡ることになる、ヨーロッパの人の移動について、極東から来た私は考えこまざるを得ない。
 それはともかく。彼女や、スイス人である彼女の夫が作る料理が、実においしい。とりわけ珍しいものでもない、シンプルなもの。毎週土曜日に、国境のフランス側の市場に買いに行く、豊富な野菜を使ったフレッシュなサラダ、残った野菜を全部刻んで煮込んでしまうスープ。食事のあとに必ず、幾つかテーブルに並べて、ちょっぴりのバゲットと一緒に食べるグリュイエールやエメンタールや、柔らかい山羊のチーズ。やっぱり古いヨーロッパの人っておいしいもの食べてるなあ、といつも思うのである。それだけおいしいものを食べていた後だったから、平松洋子の文章を読んだとしても、あれが食べたくてたまらない、これを今すぐに食べに行きたい……ようなことには、なるまい、と思っていたのだ。
 しかし、甘かった。ほうれんそうの「しぼり加減」の話、「どっぷりと」水に浸かる車麩や干瓢、野菜を茹でる「しずく」のこと……日本に着陸するのがもどかしいように、しみじみと、気持ちは日本の食材に追われ始める。おお、日本の食材が私を待っている、日本のあれが食べたい、これも作りたい、と、わくわくし始める。おいしいものをもっとおいしく食べたい。とりわけ、ちくわ、かまぼこの章が、すごく響いた。なぜかと言えば単純にも、自分が大好物だから。ちくわのけなげさについて「みずから低いところに立って、惜しみなく安心を与える」とか、書かれてあると、もう、胸が締めつけられるほどにちくわへのなつかしさは増し、きりっとして潔い、と書かれる、かまぼこへの愛情もひしひしと蘇ってくる。誠に大げさであるが、それほどに、思いは深いのだ。かくして私は、ちくわとかまぼこ食べたさで、ワクワクしながら魔法にかけられたように、ちくわとかまぼこの待つ羽田空港に降り立ったのである。
 この人の文章を読むと、これが食べたい、と思うだけではない、自分が一番おいしいと思うものを、お贈りしたくも、なる。お家にお送りしてこの人にこそ食べてもらいたい、という気になる。それが文章になるかどうか、という問題ではない。この人に食べてもらいたい。そして一言でいい、本当に一言でいいから、「おいしかった」と言って欲しい。練りものに関しては、私には自信を持って日本一だ、と思っている、我がふるさとのちくわとかまぼこがある。そのかまぼこたるや、平松さんが書くとおり、全く「隙がない」ほどに密着し、みっちりして、清らかで、ため息が出るほど美しい。ちくわはそれと比べるとやっぱり、こちらも平松さんの書くとおり、ちょっとランクが落ちる感じがあるとはいえ、「一本齧って」、お腹いっぱいになるくらいの食べ応えがあるところも、素晴らしい。おお、このちくわとかまぼこ、ぜひぜひ食べてもらいたい、と思ってしまう。
 なんなのこれ? 作者にものを贈りたくなる文章って、いったい何? かくして平松洋子宅には、きっと日々美味しいものが届くのに違いない。平松洋子に喚起されるのは、食べものについての、とめどなく語りたい思いと、もう一つ、「贈りたい欲望」であるらしい。その欲望は「平松洋子に食べてもらいたい」を超えて、ああ、私の好きなあの食べ物を私のなつかしいあの人に食べてもらいたい、という感情へと変化してゆく。今年のお歳暮は、ちくわとかまぼこにいたしましょう、と、考える。平松洋子の文章に喚起されるのは、共食と贈与への尽きせぬ欲望なのであり、それは、とりもなおさず、人間が人間である、根源にかかわることなのではあるまいか。
 平松洋子が食べることを書き続けられるのは、彼女の食べることの外の世界が、考えられないくらい豊かであることにほかならない。食べることから広がる博識と文学的素養。そのように平松洋子はひたすら食べ物とその周辺を書くことができるのだが、さらに、物書きにとってのすべては、文体である。何を書くのか、ではない、どのように書くのか。見よ、炒り卵の、項。このリズムの良さ、テンポの良さ、弾む文体、生き生きしたその流れ。これがすべてだ。食を書こうと、食の周辺を書こうと、何を書こうと、平松洋子は、文章の天才なのである。また、そのウィットと、オチの見事さ。「墨」の項を読んで、びっくりして大笑いする。真面目に墨に向かう道具だてやら、もったりした墨の照りやら、手招きする幽玄やら、万葉仮名のおさらいやら……さすが文学の人だなあ、とうっとりしていると、最後に、「いか墨」で書いてみたらどうかしら、と言われるのだ。もう。平松さんってば。真面目に読んでいたというのに。なんてすてきなんだろう。こういう書き手の魅力には抗えない。平松洋子が連れて行ってくれる世界に、喚起してくれる欲望に、私たちはまだまだ、たっぷり遊ばせて頂けそうで、「買えない味」シリーズの今後も、楽しみなのである。

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