ちくま新書

明治維新と東京

1月の新刊、松山恵『都市空間の明治維新』の「はじめに」を公開いたします。江戸の町が首都「東京」になったとき、どんな変化が起こったのかに迫る本書。 「はじめに」では、本書のポイントとなる部分が端的に説明されています。ぜひお読み下さい!

本論への導入として
 本論に進む前に、あらかじめ踏まえておきたい事柄や、中身をよりよく理解してもらう
ためのポイント(本論で明らかにする内容の一端)を、前もって説明しておこう。

①図を読みとく
 図0-2(webでは割愛) は、幕末江戸の土地利用状況をあらわしている。一見して、都市の内部が身分によって区分けされていたことに気づく。
 本書の対象である江戸-東京のみならず、現在、県庁所在地になっているような日本列島のおもだった都市の多くは、江戸時代に城下町(近世城下町)として誕生している。城下町の大きな特徴は、このように内部の社会と空間が深いつながりをもち、都市空間が領主の居城(江戸では江戸城)を核としながら、武家地・町人地・寺社地といったように、当時の身分制度にそって分割されていたことにあった。身分的な属性をまたぐ"人(社会)と空間の関係"は厳しく禁じられており、たとえば武家地を恒常的に利用したり居住できるのは武家のみに限られていたのである。
 この特徴にくわえて、幕府権力の拠点であることにより江戸にはとりわけたくさんの武家地(大名屋敷、幕臣屋敷)が存在した。それは最終的(幕末)には都市域全体のじつに約七割におよんだとされる(宮崎勝美「江戸の土地」『日本の近世9 都市の時代』中央公論社)。
 そもそも近世の日本は、260あまりの藩(大名家)からなるいわば「連邦国家」であ
り、また君主が2人(将軍、天皇)いる「双頭の国家」という体制だった(三谷博「国境を越える歴史認識――比較史の発見的効用」『岩波講座 日本史』22、岩波書店)。その安定にむけて、幕府は参勤交代と呼ばれる大名統制策を敷く。各藩の藩主を定期的に出仕させるとともに、正室と世継ぎに対しては人質として常住を強いるなどした。結果、江戸には各藩の邸(大名屋敷)が置かれ、このように数多くの武家地がその大半を占めるかたちでひろがっていた。
 要するに、江戸の都市空間そのものが、日本近世の社会(身分)や政治の制度を体現し、またその維持や強化に役立つ、一種の統治装置の役割を果たしていたのである。

②武家地への着目
 その樹立からほどなく、明治政府はこのような近世的秩序にもとづく江戸の都市空間に
対し、いろいろと手を加えていくことになった。そこでは、当然ながらゼロからの再スタ
ートとはならず、あくまでも幕末時の状態(身分制にもとづく"人〔社会〕と空間の関係")を前提とせざるをえない。
 ただし、このことは新政府にとって、かならずしもマイナス面ばかりではなく、大局的
にみると、体制づくりはむしろそうした既存の枠組みの利用ないし手直しをつうじて、は
じめて進むものだった。
 その最たる例は、都市域の大半を占めていた数多くの武家地をめぐる動きである。
 たとえば町人地では明治年間を迎えても、江戸時代の占有権がほぼそのまま所有権へと
公認されるものとなったから、そこで築かれていた社会は大きく途切れることなく以後へ
と受け継がれた。対して武家地の事情はまったく異なる。新政府は基本的にそれらをすべ
て没収する一方で、その枠組みを維持しながら利用するという行動にでたのである。
 このように書くと、武家地はいつまで存続したのか、明治時代を迎えるとともに終焉を
迎えたのではないかと、いぶかしがる人もいるだろう。新政府がいわゆる四民平等理念の
影響なども受けつつ身分制廃止を選択したことは一般によく知られ、またこの廃止ととも
にそれまでの武家地・町人地といった土地利用区分も放棄されたことは確かだ。
 しかしここで注意しなければいけないのは、新政府の右の選択は、その樹立当初から決
まっていたものではまったくなく、ようやく明治4年(1871)4月になってからおこなわれるものだったという事実である(横山百合子『明治維新と近世身分制の解体』山川出版社)。
 わずか数年のことではあるものの、このタイムスパンの存在意義はきわめて大きい。な
お、本書における"明治初年"とは以降、とくに断りのないかぎり、この明治4年なかばまでの時期のことをさす。
 新政府はこの期間、武家地(そのうえにある建築なども含む)という、いうなれば大量の空間的資産を持つことができた。くわしくは本論にゆずるが、そのことによってはじめて、京都から東京への遷都、さらには統治構造の再編(「双頭・連邦国家」から「単頭・中央集権国家〔単一国家〕」へ)などを果たしていく。このほかにも、東京をみずからの首都にふさわしいものへと改造していくための人びとの配置替え(貧富分離)や、さらには当時重要な物産だった桑茶の植え付けなどにいたるまで、武家地処分をつうじておこなっていった。
 従来、この時期の東京については、幕末にくらべて人口が大きく減ることなどから、江
戸の連続(ゆるやかな衰退)として語られることが多かった(小木新造『東亰庶民生活史研究』日本放送協会、同『東亰時代――江戸と東京の間で』講談社、陣内秀信『東京の空間人類学』筑摩書房ほか)。しかし実際には、前記のような諸政策が投じられて、都市域の大半を占めた武家地でその利用者や機能はすでに大幅に入れ替えられていたのである。当然ながら、そうした動きはただちに町人地をはじめとする他エリアにおけるあり方にも甚大な影響をおよぼしていく。
 本論では以上をめぐる手順や論理のほか、並行して東京のなかにあらたに生みだされた
二つの領域(「郭内」・「郭外」)などについても明らかにしていく。

③現在の東京の"祖型"
 ところで、こうした明治のごく初期(明治初年)における動きを正確に把握することは、近現代の東京のあり方を考えるうえでも重要な意味を持つ。というのも、東京ではまもなくの明治5年(1872)2月に地租改正にむけた地券発行がはじまり、旧武家地もふくむすべての土地の所有関係がいったん確定してしまうからである。これ以後は、たとえば政府といえども都市内部を都合よく改造することは格段に難しくなり、同時に、各所における変化も基本的にひとつひとつの土地(ないし地主の所有規模)を単位とした、比較的ミクロなものへと落ち着いていく。
 つまり、さきの明治初年における武家地処分(どのような人物ないし主体が、どこを、どのように所持するべきかを公権力が一方的に決めえたこと)は、結果的に、その後長期にわたって東京の発展の方向性を拘束する"祖型"としての働きを持つことになった。それは、江戸- 東京の歴史のなかでも数少ない"人(社会)と空間の関係"を大幅にリセットし、同時にその状態をある程度固定化させるという、歴史的意義を持つものだったのである。
 本論では、このように明治初年に生み出された"祖型"のもと、東京が政治都市として
ばかりでなく、社会文化的にも列島の中枢へとどのように移行していくのか、旧武家地固
有の現象などにも光を当てながら追跡していくことになる。

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