piece of resistance

35 電球

なんでそんなことにこだわるの? と言われるかも知れないが、人にはさまざま、どうしても譲れないことがあるものだ。奥様とは言わない、本に書き込みはしない、ご飯は最後の一粒まで食べる、日傘は差さない……等々。それは、世間には流されないぞ、というちょっとした抵抗。おおげさ? いやいや、そうとは限りません。嫌なのにはきっとワケがある。日常の小さな抵抗の物語をつづります。

 トイレの電球が切れて二週間になる。
 妻に動きはない。私も動かない。動いたら負けという空気が日々濃厚に我が家へ垂れこめていく。
 互いに口にも出さない。
 この件で会話がもたれたのは、まさしく二週間前、トイレの電球がしゅっとその生涯を閉じた直後だけだった。
「新しいのをつけなきゃな」
 と、私は言った。
「そうね。つけなきゃね」
 と、妻も言った。そのあとでこう付け加えた。
「前回は私が取り替えたわよ」
 私は微妙な角度で首を揺らした。
「そうかもしれない。しかし、前回トイレの電球が切れてからこの方、階段の電球も切れたし、たしか風呂場の電球も切れた。どちらも取り替えたのは私だ」
 妻は視線を宙へ踊らせ、思い出そうとするふりをした。が、例によって、不都合な記憶がよみがえることはない。
 さあ、どうなのかしら。階段の電球も切れたのかしら。お風呂場の電球も切れたのかしら。もしもそうだとしても、一体それがなんなのかしら。
 そんな目をして妻は言った。
「協力しあうのは当然よね。共働きなんだから」
 唐突な飛躍に私はぎょっとした。ただの球体と化した電球さながらに、脳内の大事な回線がぶっ飛んでしまいそうだった。
 共働きなんだから。何かにつけて妻はそれを口にする。
「今週は残業が続きそうだから、料理は期待しないでね。共働きなんだから」
「テレビのチャンネルを勝手に変えないでね。共働きなんだから」
「アスパラガスの先っぽの柔らかいところばっかり食べないでちょうだい。共働きなんだから」
 たしかに妻は働いている。しかし、私も働いている。私にはアスパラガスの先っぽの柔らかいところを食べる権利がないのか。
 私はいつも心で叫ぶ。が、ひとたびそれを口に出したが最後、妻からどんな意趣返しを見舞われるかわからないので黙っている。
「ま、これからも協力しあってやっていきましょう」
 とかなんとかお茶を濁して収拾をはかる一方、私はあのとき、胸の内で断固たる決意をかためたのだった。
 私は今回の電球マターに一切タッチしない。
 共働きの意味を妻が正確に捉えているのなら、今回は妻の番だ。

 私は妻に時間を与えた。彼女が己の思い違いを反省し、粛々と電球を取り替えるに及ぶのを待った。が、その兆候はなんら見られない。
 朝はいい。ほんの申し訳程度に設けられた小窓からの陽射しに救われる。問題は夜だ。一切の光を通さない密室で、暗がりに潜んだ便器に目をこらし、方向や角度を誤ることなく尿を放出する。近眼の私にとってそれがどれほど心許ない行為であるか女の妻には想像だに及ばないのだろう。
 心も荒む。トイレのドアを開けるたび、バケツの水をかぶるがごとく、暗闇を頭からぶっかけられる気がする。
 日に日にトイレへ行くのが億劫になり、できるかぎり遅らせようと排尿を堪えるようになった。水分を控えるため、夕食時の晩酌も抑え気味になる。なぜ自分はこんなことをしているのか。絶え間ない自問がつきまとう。
 なぜ妻は平気なのか。以前と変わらず食事中もごくごくと茶を飲み、ためらいもなくトイレへ席を立つ。どうすればこれほど暗闇に無頓着でいられるのか。

 妻の胸中を考えあぐねた私は、ある夜、食後にテレビを観ていた妻がのっそり腰をあげ、玄関へ続く廊下の右手にあるトイレへ向かっていくのをそっと尾行した。
 すると、妻がトイレに一歩足を踏み入れるや否や、闇に包まれているべきそこに仄かな明かりが灯ったではないか。
 どうしたことか。妻が後ろでに閉ざそうとしていたドアのノブをつかみ、私は中を覗き見た。そこにいたのは片手に懐中電灯を握った妻だった。
「君は……卑怯だ」
 思わず喘いだ私の顔を妻の懐中電灯が照らしだす。
 薄闇にまぎれた妻の顔は微塵も動じていなかった。むしろ挑むように私を睨めつけ、ライトの的を私から壁へ移動させていく。浮びあがったのは残りわずかのトイレットペーパーだ。
「問題は、あと二、三日でトイレットペーパーが切れるってことよ」
「え?」
「電球が切れるのとトイレットペーパーが切れるのと、どちらの頻度が高いのか。そしてそのトイレットペーパーをこれまで誰が絶えず補充しつづけてきたのか、よくよく考えてみることね」
 あなたがこの問題を吟味して反省しないかぎり、我が家のトイレは光のみならずトイレットペーパーをも失うことになる。
 そう私に突きつけた妻の声は勝者のそれだった。