世の中ラボ

【第105回】百田尚樹『日本国紀』をどう読むか

ただいま話題のあのニュースや流行の出来事を、毎月3冊の関連本を選んで論じます。書評として読んでもよし、時評として読んでもよし。「本を読まないと分からないことがある」ことがよく分かる、目から鱗がはらはら落ちます。PR誌「ちくま」2019年1月号より転載。

 11月に発売された百田尚樹『日本国紀』が話題である。
〈当代一のストーリーテラーが、平成最後の年に送り出す、日本通史の決定版!〉という麗々しいキャッチコピー。おまけに書店という書店には、もっか、この本が山積みだ。
 となれば、読むっきゃないでしょう。なにしろ著者は安倍晋三応援団にして、『永遠の0』(2006年)や『海賊とよばれた男』(2012年)で知られるベストセラー作家。なおかつ「沖縄の二つの新聞社は潰さなあかん」(2015年6月25日。自民党の勉強会「文化芸術懇話会」での発言)とか、「朝日新聞は日本の敵だが、そんな売国新聞を支えている朝日の読者も日本の敵だ」(2018年1月13日のツイッター)とかいった問題発言をくり返してき右派論壇のスターである。どんな通史なのさ、え?
 同じような物見高さで手にした読者も多かったのだろう。案の定発売直後から、ネット上には批判の山が築かれた。ただし、その多くは事実関係の単純な誤認を指摘したものとか、ウィキペディアと同じ文章だったとか、これこれの本の丸写しだったとかいう「コピペ疑惑」で、重箱の隅をつついている感は否めない。つまり批判に迫力がない。そりゃあウィキペディアの丸写しも褒められた話ではないだろう。しかし、いま検証し、追及すべきは「コピペ疑惑」だけなのか。もっと重要な論点があるんじゃない?

自讃史観(歴史修正主義)の進化(劣化?)の産物
〈日本ほど素晴らしい歴史を持っている国はありません〉(「序にかえて」)という一文で、『日本国紀』ははじまる。
〈もちろん世界中の国の人々が自分の国について同じように思っていることでしょう。それでも敢えて、日本ほど素晴らしい歴史を持っている国はないと、私は断言します。/神話とともに成立し、以来二千年近く、一つの国が続いた例は世界のどこにもありません。これ自体が奇跡といえるほどです〉。
 要は「自虐史観」ならぬ、わかりやすい「自讃史観」である。
 しかし、ではどれほど素晴らしい自讃で読者を楽しませてくれるかというと、じつは期待したほどでもない。十七条憲法を取り上げて、天皇の権威が絶大だった時代に〈「和と、話し合うことの大切さを謳った」憲法をよしとして創作するというのは凄いことである〉と称揚するとか、「日本」という呼称が使われはじめたのは七~八世紀だという話に続いて〈「日本」という国名は、神話とも結びついた素晴らしい名前である〉と持ち上げるとか、通常の史実に「日本スゴい」という著者の情緒的な感想がときどき挟み込まれるだけ。同じ自讃史観系の通史なら、二〇年近く前に出た西尾幹二『国民の歴史』のほうがおもしろかったぞ。
 そう、『日本国紀』は2018年に突然ポッと出た自讃史観本ではないのである。90年代からじわじわ力をつけてきた歴史修正主義本の延長線上にある本で、その意味では自讃史観(歴史修正主義)の進化(劣化?)を体現した物件ともいえる。
 少しだけ過去に遡ると、この系列の最初の一冊は、藤岡信勝+自由主義史観研究会編『教科書が教えない歴史』(1996~97年)だった。この本自体は歴史の中の「素晴らしい日本人」の逸話を集めただけのエピソード集だったが、翌97年には、その藤岡信勝らによる「新しい歴史教科書をつくる会(つくる会)」が発足、現行の歴史教科書は「自虐史観」に毒されているという猛烈なキャンペーンを張りだした。小林よしのり『新ゴーマニズム宣言SPECIAL戦争論』(1998年)も、くだんの西尾幹二『国民の歴史』(1999年)も、『市販本 新しい歴史教科書』(2001年)も、当時の「つくる会」関係者によるベストセラーである。こうした書籍や保守論壇誌によって「自虐史観」批判は流布され、日本会議の活動などとも連動して、教科書を改編させ、嫌韓感情に火をつけ、幾多のヘイト本がはびこる土壌まで生んだのだ。
『国民の歴史』は一〇年後に、『決定版 国民の歴史』(2009年)として文庫化されている(が、現在は入手困難)。よくも悪くもこの本がおもしろいのは、折にふれ、学校で習う従来の歴史とはちがった、大胆な解釈が示されるところである。
 たとえば明治維新。〈私たちは高校の世界史などで、フランス革命が資本主義への道を開いて、近代のブルジョア民主主義の成立と発展に寄与した。自由、平等、博愛を謳った人権宣言の理想は、たとえ暴力革命による血の犠牲があったにしても、それを乗り越えて人類の胸にこだましつづけるであろう、などの美しい言葉をさんざん聞かされてきた〉。だが、そうした「下からの革命」を絶対的尺度とする歴史観は正しいのか、と西尾は問う。近代のドイツや日本は遅れた国とされてきたが、〈ビスマルクによるドイツ統一や明治維新による日本の開国といった「上からの革命」のほうが、今になってみると、高度の資本主義の展開を準備するうえにはるかに有効であって、いっそうブルジョア革命的であったという逆説さえ成り立つ〉。そういわれれば、そんな気もしてくる。
「下からの革命/上からの革命」とは、昭和初期の日本資本主義論争の争点にもなった有名な命題だが、歴史家がフランス革命を絶対視する理由は〈マルクス主義の歴史解釈が、日本の学会を呪縛したからである〉と西尾はいう。これは一面では事実である。
『国民の歴史』は論争的だし、挑発的なのだ。
『日本国紀』にその種のアクチュアリティはない。この本に「画期的」な部分があるとしたら、関東大震災時の朝鮮人大虐殺や南京大虐殺や慰安婦といった最近の保守論壇が好んで話題にするトピックを取り上げて〈この話には虚偽が含まれている〉などと一刀両断にする一方、教科書などに見られる「自虐史観」の発祥を敗戦後のGHQによる「洗脳」に求めた点だろう。
〈GHQが行なった対日占領政策の中で問題にしたいのが、日本国民に「罪の意識」を徹底的に植え付ける「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」(WGIP:War Guilt Information Program)である。これはわかりやすくいえば、「戦争についての罪悪感を、日本人の心に植え付けるための宣伝計画」である〉と百田はいう。〈これは日本人の精神を粉々にし、二度とアメリカに戦いを挑んでこないようにするためのものであった。東京裁判もその一つである。そして、この施策は結果的に日本人の精神を見事に破壊した〉。

日本の歴史教育はどこへ行く
 百田によると、GHQの「WGIP」に洗脳されたのは〈昭和10年代の終わり(戦中)以降に生まれた人たち〉と〈その後に生まれた団塊の世代〉なのだそうだ。彼らは〈小学校に上がった頃から、自虐思想を植え付けられた〉世代であり、〈戦前の日本のすべてを否定する日本人として育てられた〉ため、〈今も自虐思想から抜け出せない〉。そして〈「WGIP」洗脳第一世代ともいうべき戦中生まれの人々が社会に進出し始めた昭和40年代頃から、「自虐思想」が再び頭をもたげてくるようになる〉。
 一見もっともらしいけど、この認識はかなり怪しい。第一に、戦争や戦時体制に対する忌避感が強いのは、十代の多感な時期に戦争を体験した昭和一ケタの「少国民世代」だろう。第二に、仮に百田がいうように〈多くの日本人が「戦前の政府と軍部は最悪」であり、「大東亜戦争は悪辣非道な侵略戦争であった」と無条件に思い込んでいる〉としても、それは戦争への拒絶感に由来しており、GHQの洗脳だとする説は陰謀史観に近い。第三に、彼が「自虐思想」の勃興期と規定する昭和40年代頃(1965~70年頃)は高度成長期の真っ只中で、日本人の関心は自虐思想もヘチマもなく、経済に向いていた。団塊世代の一部は学生運動という「反日テロ」に向かったかもしれないが、それはごく少数派。この世代は戦後日本の経済を支えた集団就職世代なのだ。あえていえば、百田がいう「自虐思想」が出てきたのは、日本が近隣諸国を気にしはじめた1980年代(昭和50年代後半~60年代)だろう。
 とはいえ、ことここに至って百田の筆は急に熱を帯びる。結局書きたかったのはこれか、という感じである。歴史修正主義が台頭して約二〇年。歴史家が(とあえていうけど)批判を怠ってきた結果が、自民党が推奨する育鵬社の教科書の採択率上昇であり、『日本国紀』のベストセラー化現象だと思うと、どうにも腹立たしい。この先、日本の歴史教育はどこへ行くのだろう。
 嘆いてばかりいても仕方がない。『日本国紀』のワクチンとして、別の本を紹介しておこう。灘中学が採用したことで話題になった学び舎の中学歴史教科書『ともに学ぶ人間の歴史』である。この教科書は他の歴史教科書とは一味も二味も異なる。
 まず驚くべきは巻末の年表だ。そこに置かれた日本史は、なんと「北海道など」「本州など」「沖縄など」の三本立てなのだ。17世紀を例にとれば、北海道は「アイヌ文化の時代」、本州は「江戸時代」、沖縄は「琉球王国」。すげえ斬新。かつ正しい!
 こうした工夫は本文にも共通する。〈1904年の秋、満州(中国東北部)の奉天(現在の瀋陽)に、日露両軍に村を追われた人びとが、次々に逃げ込んできました。人びとは、寺院や人家の軒下などで、寒さにふるえていました〉とは、日露戦争の項目の書きだし。この教科書では民衆が主で、為政者が従なのだ。
 こうなるともう、自虐史観も自讃史観もない。歴史教育の最大の欠点は「人」ではなく「国」中心の歴史だったことではないのか。歴史修正主義が広がった一端も、そもそもは歴史の教科書がつまらないからだった。『ともに学ぶ人間の歴史』をもっと大々的に売る方法はないのだろうか。歴史を見る目が確実に変わるはずである。

【この記事で紹介された本】

『日本国紀』
百田尚樹、幻冬舎、2018年、1800円+税

 

〈本書は、2000年以上にわたる国民の歴史と激動にみちた国家の変遷を「一の線」でつないだ、壮大なる叙事詩である!〉(帯より)と、構えだけは大げさだが、新たな発見には乏しい退屈な、自称「通史」。ただし、大東亜戦争はいわゆる「侵略戦争」ではなかった、南京大虐殺や従軍慰安婦の記事を捏造したのは朝日新聞であるなど、保守論壇誌で見飽きた言説だけは満載。

『決定版 国民の歴史』上下
西尾幹二、文春文庫、2009年、838円+税、876円+税

 

〈専門家が語り、学校が教えてきた歴史の常識にダイナミックな視点で斬り込んだ、読み継がれるべき国民的ベストセラー〉(カバーより)という惹句は華々しいが、そのわりに増刷された気配のない、忘れ去られたベストセラー。ただ、秀吉の朝鮮出兵は大航海時代に連動する近代の幕開けだった、鎖国は積極的な防衛だったなど、牽強付会な自讃史観が開陳されている点はおもしろい。

『増補 学び舎中学歴史教科書――ともに学ぶ人間の歴史』
安井俊夫他、株式会社学び舎、2016年、2400円+税

 

〈読んで楽しい 問いが生まれる テーマが満載〉〈東アジアや世界からの目・子どもや女性の姿も多く登場〉というキャッチコピーに偽りのない、見てびっくり、読んでおもしろい画期的な教科書。現職の教師と元教師三二人の共同執筆で、「学び舎」はこの教科書のために設立された会社法人。2014年、検定に合格。全国三八校、五三〇〇人の中学生がこの教科書で学んでいる。

PR誌ちくま2019年1月号