絶叫委員会

【第136回】昭和の人

PR誌「ちくま」2月号より穂村弘さんの連載を掲載します。

 先日、発泡水を飲んだ時のこと。思わず、「辛っ」と云ってしまって、ちょっと驚く。何を云ってるんだ。辛くはないだろう。炭酸が強いだけだ。それから考える。やっぱり自分は昭和の人なんだなあ。或る世代以下の人間は、炭酸が強いことを辛いとは云わないと思う。辛いとは炭酸慣れしていない人間が、その刺激を自分に馴染みのある感覚に反射的に変換した、つまり一種の翻訳表現なのだ。
 平成も終わろうとしているのに、私の中身はまだ昭和のままか。子どもの頃からサイダーやコーラやファンタなどの炭酸飲料はあったけど、そこから発泡水までが遠かったからなあ。
 そういえば、いつだったか。外出の前に「夜は寒くなるかも知れないから、ひっかけるものを持って行こうかな」と妻が独り言を云っていた。「ひっかけるもの」って、久しぶりに聞いた気がした。私よりは年下だけど、彼女も昭和の人なのだ。
 そんな妻に「『アッパッパ』って知ってる?」と尋ねたところ、「昔の、夏のワンピース?」という答え。うーん、間違いじゃないと思うけど、なんとなくニュアンスが違うような。子どもの頃、母や近所のおばちゃんが着ていたあれはワンピースって雰囲気じゃなかった。
 正式な定義はどうなってるんだろう、と思って検索してみたところ、こんな説明があった。

 アッパッパ(up a parts)は女性用の衣服の一つ。夏用の衣服として着られる、サッカー生地など木綿製のワンピースである。簡易服、または清涼服などとも呼ばれる。
「アッパッパ」(ウィキペディア)より

 ええっ! 「アッパッパ」って英語なの? 意外だ。典型的な和製洋服って感じがしたけどなあ。
 新しい言葉が次々に生まれる一方で、語彙の変化によってかつては存在した微妙なニュアンスが脱落する、って現象もあると思う。先日、昭和三十年代の探偵映画を見ていた時のこと。天知茂が画面一杯の大写しで「きゃつめ」と呟いた。すると、一緒に見ていた妻が「きゃつ?」と不思議そうにリピートしたのである。その語感が奇妙に思えたのだろう。最近は云わないもんなあ。
 ということは、現在では「きゃつ(彼奴)」は「やつ(奴)」に吸収されてしまったのだろうか。でも、「やつ」にはないニュアンスが「きゃつ」にはあったはず。ただ、どう違うのか、うまく説明できない。

「きゃつ(彼奴)」[代]《「かやつ」の音変化》三人称の人代名詞。主として男子をののしったり親しみをこめたりしていう語。あいつ。やつ。「これは彼奴の仕業だな」
「デジタル大辞泉」より

 そうそう、そうだった。こんな短歌がある。

 われの耳翼に歯型を残し遠ざかる彼奴(きゃつ)、萬緑の底の地獄へ    塚本邦雄 

 この「彼奴」も「男子」だろうなあ。「ののしったり親しみをこめたり」の最上級というか、作中の「われ」はぴろぴろと「耳翼」を羽ばたかせて「地獄」まで「彼奴」を追いかけて行きたいのだろう。