PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

能との遭遇

喚起すること・1

PR誌「ちくま」2月号よりドミニク・チェンさんのエッセイを掲載します

 ひょんなご縁で、能楽師の安田登さんの謡の稽古にかれこれ二年以上通わせて頂いている。
 稽古では、謡本を読みながら謡い方を習いつつ、多様な背景の参加者からの疑問や連想にトリガーされる脱線話が交わることで、能楽を身体的に体感しながら、そのエッセンスと関連する事象や概念が連想的に広がっていく。個人的に、当初はただただ広範な話題の振れ幅を楽しんでいたが、次第にフォーカスが絞れてきた。そうしていつからか、上澄みのように「喚起」というテーマが浮き上がってきた。
 能の稽古をはじめて一年ほど経った春の日に、夢幻能の古典『融(とおる)』を薪能のセッティングで観劇する機会があった。実は能楽堂で本格的な能の舞台を観るのはこの時が初めてだった。薪能とは能舞台の周辺にかがり火を焚いて、その灯りのなかで演じられる能の演目である。蝋燭の灯りの微妙な明るさで眼がなかなか暗順応できず、自ずと知覚が励起し続ける。驚いたのは、シテとワキ、囃子方、地謡それぞれが自律的に作動していて、謡の声が鼓の音に隠れることだった。まるで全体を制御しようとする統一的な意志がないのだが、舞台上の演者たちの揺動し続ける関係性によって一つの全体性が都度、創発しているように見えた。
 また、囃子方の鼓とかけ声は鳥獣の鳴き声や風の音、そして情動系のノイズ(内声的な叫び)といった非合理的な自然音のメタファーなのではないかと思った。謡が言語的な構造を司るならば、囃子方は非合理的な無意識のレイヤーを物語に被せてくる。この二つの層がフラットに自律しながら、ところどころで互いの共振が知覚できるように演目がデザインされている。
 そして、蝋燭の灯りのもと、揚幕から汐汲みの老人や源融の亡霊が摺足で浮遊するように登場する様も、気がついたらそこに居る、という感じで、スポットライトをあてるような現代的な演出とは全く異質な登場の仕方である。
 ラテン語のモンストラチオmonstratioはもともと「見せる」という意味で、現代では「怪物」を意味するモンスターmonstrumの語源である。合理的なプロセスを経ず、ただ出現するものがモンスターであるとすれば、夢幻能の亡霊はまさにmonstrumだ。対照的に、de-monstrationとは論理によって事象を脱モンスター化する作業を意味しており、転じて「証明」を指す言葉になった。
 別に合理的な理由もなく、ただ出現してしまったものとして遭遇するしかないmonstrum(亡霊、化物)という存在は根源的に「謎」である。つまり意味論的に解釈したり咀嚼したりすることのできない、無意識内を漂う「問い」の原型のようなものではないだろうか。
 薄明かりの能舞台を二時間近く観ていて、思考が全く飽和せずに働き続けていた理由には、以上のような働きがあったのではないかと考えている。身体に入ってくる情報の意味が理解できないが、その分ずっと脳がアクティブにドライブし続けている状態は、誰もいない夜道を散策している時の脳の覚め方に似ている。
 この時はじめて、「見立て」という概念が、観るものが自律的に意味を生成するためのプロセスを喚び起こす境界(インターフェース)を指しているのだと、しみじみと腑に落ちたのだった。

PR誌「ちくま」2月号

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