Re-think 現代写真論――「来るべき写真」への旅

第12回  クロニクルズ(前編)

デュッセルドルフ・スクールへの旅の追憶

1 2002年の「問い」と「答え」

 トーマス・ルフに初めて会ったのは、2002年11月12日のことだった。僕は当時、『花椿』誌で不思議な形式の対談連載をしていた。タイトルを「問いと答え」といった。

 僕がトーマス・ルフにした質問はこのようなものだった。

 

QUESTION(後藤繁雄)

 報道されるニュース映像さえ、修正される今、「写真」にとっての「真実」とは何なのでしょうか? 情報化時代の映像のリアルということは、どういうことなのでしょうか?

「photography」というコトバに、「写真」という字をあてたのは誰なのだろう? 「真実」を「写しとる」と書いて「写真」。漢字を書いてルフに説明したら、彼はニヤリと笑った。トーマス・ルフは、トーマス・シュトルートやアンドレアス・グルスキーらと並んで、ベッヒャー・スクールから出てきた現代ドイツを代表する写真家・アーティストの一人。空間の無意識を浮かび上がらせる「インテリア」シリーズ、天文写真を巨大に引き伸ばした「星」、ミース・ファン・デル・ローエなどの現代建築写真、そしてブラジリアのステレオ写真など、写真でありながら、写真を逸脱する挑戦的な写真の数々。

 そんな彼が、日本でphotoのことを「写真」と書くと知ったら、どんな顏をするだろうかと思った。そう、僕らは最初から写真についての先入観がある。そんな人がルフの「Substrate(基層)」を見たら、ひどく混乱するだろう。たしかにCプリントとインクジェットで引き伸ばされた作品は「写真」だが、それはインターネットでサンプリングしたデータを加工してつくられた、とても官能的に進化した映像。でも、これって何?

 ルフが笑いながら逆に問いかけてくる。

 

ANSWER(トーマス・ルフ)

 わたしが70年代に写真を学び始めた頃、写真が真実を写しだすものであるということを信じていました。だから、より正確で精密に写そうと考えて、大きなサイズのカメラを使い、「インテリア」のシリーズを撮ったんです。ところが1991年に湾岸戦争が起こりました。あの「緑色」がかった夜の映像を見た時、リアルタイムで報道されている戦争の内容にショックを受けると同時に、その映像と技術の素晴らしさに魅了されました。わたしの中で好奇心の方が勝ったんです。何とかその機械を手に入れることができないかと考え、同じ「ドイツ製」のものを手に入れました。それは当時の最新テクノロジーでしたが、それでもシャープな絵は撮れず、あの多少輪郭がぼやけた、恐い「夜」のシリーズができ上がりました。テレビで報道された映像はアメリカ人がすべて管理した上で報道する、つまり、演出された映像でした。そのような映像のあり方に、わたしがアーティストとして対抗することはできません。そこで考えたのは、わたしが住んでいたデュッセルドルフという代表的な西側の大都市を、わたしたちの側の紛争地域ととらえて、その夜を撮るということでした。

 自分の撮っている写真は2種類あります。1つは「ストレート・フォト」。もう1つは、わたしが「機械を使った写真」と呼んでいるものです。わたしの「星」のシリーズは、プロフェッショナルな宇宙飛行士に依頼し撮ってもらったものですが、あれもただ無垢の眼で星空を見上げても見えない映像です。大きなテレスコープのような道具を使うことで見えてくるもの。アマチュア写真が、自分が育った街の様子を、はっきり思い出せるためのものであるように、写真はいずれにしても、人間の記憶や知覚を助けるための補助具だと思うんです。わたしは夜間撮影用の装置によって得たデータや、最近ではインターネット上に流通しているデータを可視化して作品にしていますが、基本的には、以前わたしが写真機で撮っていたことと、原則的に大きな変化があったとは考えていません。これまではすべて自分で撮って作品にしていたのが、インターネットで新しくアクセスできるようになったものを映像サンプルとして使うようになっただけで、この手段は前世紀、20世紀の美術史でウォーホルたちが使い、現代美術で確立されているものです。わたしが「nudes」シリーズを「撮った」背景の意図というのも、当時あった、インターネットによって未来は素晴らしいものになるという風潮を、ちょっと揶揄する気持ちがありました。インターネットによってお金を稼ぐことができるのだ、真の情報化社会が到来するのだ、という風潮がまかり通っていた。ところが、現実に目を向けるとそこで起こっていたのは、インターネットが世界最古の産業であるポルノグラフィー産業にとって、またとない手段だったということでした。

Thomasu Ruff. nudes. SchirmerMosel Verlag GmbH . 2006.

 思えば、写真というのは、つねにマニピュレート、操作されてきたといえると思います。時には権力者であったり、特定の産業であったりね。とりわけ広告で使われる写真というのは、まさにマニピュレーションの最高点といってもいい。何か特定のモノを買うよう購買欲をそそるように手を加えられた写真が使われ、メディアで流れてゆくのですから。だから、写真というのは、誕生したその時から利用されてきたんです。一方、真実というのは、それを「信じる」グループごとの「真実」があります。いや、「同じような知覚の仕方をするグループ」と言った方がいいかもしれません。わたしがつくってきた様々なシリーズすべてに共通していることも、この「知覚」ということです。例えば、どのように「写真」を知覚できるのか、信じることができるのか。

「Substrate」も、インターネットから取ってきた日本のポルノコミックのデータを使っていますが、“これは「写真」なんですか?”という質問を受けることがあります。もはや「写真」という言い方をやめたほうがいいのかもしれません。わたしたちが今まで思っていた「ハードウエア」としての「絵」や「写真」は、もうなくなってしまったのではないかと思います。今あるのは「ピクセルとしての絵」であったり、「ファイルとしての絵」であって、それがどこだかわからないけれど、どこかを漂っている。そういう状況になってしまっているのです。

「写真」というコトバから離れて、「ピクチャー」と言いましょう。自分でも、まだ誕生したばかりなので、この「Substrate」について語ることはできません。しかし、インターネットは本当に大量の情報を流し続けます。今までの10乗の10乗のレベルという、あまりに多すぎる情報量のため、わたしたちにはそれをひとつひとつ認識したり、消化することはできません。「写真」という名前で映像を確認できた時代は終わってしまいました。この作品のタイトル「Substrate」つまり「基層」ですが、それは「情報洪水」、流れてくる「絵の大量さ」と同義語だと自分では思います。溢れそうな情報、もう知覚できないものを「ピクチャー」にするんです。

 

 もはや「写真」ではなく「ピクチャー」だ、とルフは言った。

 面と向かって直接そう言われたのは新世紀になってからだったが、彼は90年代からずっとそう思い、その後も現在に至るまで、ほかの誰よりも平然と、かつ確信犯として「写真を使ったコンテンポラリーアート作品」をつくり続けていた。

 ベッヒャーシューレ(ベッヒャーの教え子)とも、デュッセルドルフ派とも言われるのに、ルフは「自分では一度も写真家だとは思ったことはないんだ」と公言もした。

 明らかに、デュッセルドルフのベッヒャーからルフへの流れは、写真における「タイポロジー」などという手法でくくれない「変成」が起きていたと考えるべきなのだ。

 その「変成」の現場を見たいと思った。

 ルフに会った翌年の2003年に、僕は『エスクァイア 日本版』誌のドイツ写真特集号(3月号)の取材のためにデュッセルドルフを訪問することになる。

 その時の記事をアップデートしつつ、抄録しておこう。

 

2 2003年、ルフが教鞭をとるデュッセルドルフのクンストアカデミーを訪ねる
 

 教室に行ってみると、ゼミ生たちが来ていた。夕方5時過ぎから、合同の評価ミーティングがある。生徒の多くはドイツが中心だが、ヨーロッパの各地からだけでなく、アジアからもやってくる。

「ルフの授業は週に1回ぐらい。その間にスタジオや暗室を使ったりするのは自由です」

生徒の一人が教えてくれる。

 別にルフから課題が出されるわけでもない。テキストがあるわけでもない。基本的にセルフコントロール。自分が出したアイデアを発展させたり強調すればいいかというディレクションをもらうのだ。

 教室には白い壁のミーティングルームがあり、そこに続いて長い廊下が延びる。でも小さな暗室やプリンティングルームがあるだけ。コンピューターの設備にしても最小のものだけで、とてもシンプルだ。教室というより、ワークスタジオといったほうがよいだろう。

 ミーティングルームでは、さっきから、1人の女子生徒が自分の写真作品のエスキスを拡大したプリントを壁に貼りつけ、やってきたルフに意見を訊いている。ルフは壁に貼られた写真を見ながら、コトバ少なげに質問をしてゆく。周りで他の生徒は、その過程を聞くともなく聞いている。でも、窓辺に腰かけて本を読んでいる者もいれば、犬を連れてきてソファに座らせ、他の生徒としゃべりこんでいる者もいる。まだ生まれたばかりの自分の子どもを連れてきている学生もいる。リラックスしたワークショップだ。 

 24年間この写真学科の教授を務めたベッヒャー夫妻が退官して、トーマス・ルフが就任したのは2000年のことだった。カナダ人の写真家のジェフ・ウォールの就任が予定されていたが、土壇場になって白紙に。ベッヒャー・スクールの出身でマイスターシューラーの資格を持つ、トーマス・ルフが務めることになった。写真学科の教授はただ1人、ルフだけである。

 以前会ったとき、「やはり自分の初期のインテリア・シリーズなどは、ベッヒャー夫妻の影響が色濃く現れていると自分でも思う。いわゆる客観的に状況を切り取るというストレート・フォトにおいてね。もちろん夫妻への尊敬の念がなくなったわけではない。自分でその先へ進まなければならないという思いが強くなったんだ」と語っていたのを思い出した。

 僕がそのときした、あなたはベッヒャーにとってよい生徒だったのだろうか、悪い生徒だったのだろうかという質問に、ルフは「わからない」ととまどいながらこう答えた。

 

「両方だね。一番よい生徒であり、一番悪い生徒だったと思う。ベッヒャーは写真の授業のとき、ずっと死ぬまで続けられるようなテーマを学生のうちに見つけなさいと言った。でも、わたしは今、クンストアカデミーにいる間は、なるべく失敗を怖れず、実験的なことをたくさん試みるように、できるだけたくさん撮ることを学生に勧めているんだ。5年間の勉強が終わって職業人になったら、もう実験はできないからね。ちなみに、それは、ベッヒャー夫妻がわたしたちに言っていたこととまったく逆なんだよ(笑)」

 

 他の美術大学と違って、いきなり各自が自由な態度で写真をつくっていく。それが一番なんだとルフはくり返し僕に言った。

 ではアートという自由、写真という自由を、このアカデミーはどのようにして生み出してきたのだろうか。

 学校が創立されたのは1773年のことだった。その後19世紀に芸術教育の専門校となり、20世紀になってからは革新的なアーティストが教鞭をとった。『造形思考』で知られる画家パウル・クレーもこのアカデミーの先生だったことがある。ペインティング、彫刻、グラフィック、写真、ビデオとフィルム、建築、それらの実技的なコースと同時に、哲学、美学、アートヒストリー、芸術教育についての教育を行ってきた。しかし、このデュッセルドルフのクンストアカデミーが他のドイツの美術大学とまったく違うのは、歴史の中で、培われてきた強靭なまでの「自由」への信念であるだろう。

 とりわけ1960年代、70年代、つまりドイツが学生運動の渦の中にあった時期。教授陣にヨゼフ・ボイスやナム・ジュン・パイク、絵画においてはゲルハルト・リヒター、そして1976年には新たに創設した写真学科にベッヒャーを教授に迎えていた。

 ベルント・ベッヒャーは、妻のヒラ・ベッヒャーとともに1959年以来、工場や採掘塔、給水塔、サイロ、溶鉱炉など、産業によって作られた匿名的な建築物を写真で追跡調査することをもって、自分たちの作品とし続けていた。「産業考古学」とも言えるような彼らの写真は、狭い意味での「芸術写真」を目指すものではなく、人類が無意識のうちに生み出した形象のタイポロジー(類型)を浮かび上がらせる社会性を強く孕んでいた。したがって、彼らの作品は、別なやり方での「ドキュメンテーション」と考えるべきだと僕は思う。 

 彼らの作品は、1975年にアメリカのイーストマンハウスで開催された展覧会、ルイス・ボルツやスティーブン・ショアらも参加した『ニュー・トポグラフィックス――人間に変容された風景』展で注目されつつも、その後の「風景写真」の潮流では括れない独自性を持っていた。1972年にキュレーターであるハラルド・ゼーマンがディレクションした「docmenta5」では、ある意味でコンセプチュアルアートとして取り上げられたし、1990年のヴェネチア・ビエンナーレでは金獅子賞を得るが、それも写真としてではなく「彫刻」としての受賞であった。

「対象に誠実でいること」「あなたの主観によって破壊しないこと。そして同時に、その対象と関わることを確かめること」。ベッヒャー夫妻の写真に対する姿勢は、きわめて客観的でありクールだった。したがって、ベッヒャークラスでの授業もまた、学生が自分のテーマを自分自身で発見し、かつそれを組織だって、首尾一貫性をもって取り扱うよう指導するということになる。

 彼が写真においてモットーとしたのと同様、生徒たち1人1人の中にあるものを破壊しないように、ディレクションを与えていくのだ。それはなんと「自由」ということと深く結びついていることだろうか。

 教授はルフの代に変わったけれど、「写真という自由」についてのベッヒャーの精神は明らかに今も生き続けている。

 例えばトーマス・シュトルートは、ベッヒャーが教授になる前の1975年、すでに、大学の回廊を使って毎年行われているルートガング展(回廊展)に49点からなる「街路」の写真を発表していた。彼は元々、リヒターのクラスにいて当初は絵画を学ぼうとしていたのだ。そして、その翌年、ベッヒャー・クラスが開設されるや、最初の生徒になった。

 アトリエでのインタビューで彼はこう教えてくれた。

「学校で写真学科が始まることになったんですが、僕はその教授のことを知らなかった。もう自分は絵描きになることはないと思っていたので、新しい教授の名前を調べ、すぐに彼に電話しました。会ってみると、とても謙虚で、物静かで、落ち着いた、魅力的な人でした。当時、僕はまだベッヒャーの作品を知らなかったけれど、父親のような感じがしました。彼は多くを語らない。だから、ほとんど禅問答みたいでした。彼のしゃべり方は、面白くて、たくさんのことをマントのように包んでひと言で言いまとめてしまうことで有名でした。僕が彼に初めて会ったときも、コトバを簡略化して“お腹が空いたからスープを飲みに行くが、君もよかったら?”とだけ言い、僕らがレストランに着くと、“人は仲間を探さないといけない”と言いました。それは話題としては、とても普通のことだったんですが、そのコトバのニュアンスの中には“誰が自分の味方となるかを見極めろ”とか、“これから先はイニシアティブをとれ”とかいうことが、その曖昧なコトバの中に同時に含まれている気がしました。彼のコトバは的確だと思います。アーティストにとってそのようなコトバは、とても大切なものです。なぜなら、アーティストは常に“自由”の中で生きているから、逆に、毎朝起きたら自分がその日何をするのか、自分で決めなくてはなりません。そのような意味で、自分の仲間が誰なのか探さなくてはならないし、決断しなくちゃいけない。誰と友情が結べるか、それはとても面白い指摘だったんです」

 

 シュトルートのコトバが示すように、ベッヒャーは写真の自由を追い求める若者たちにとって理想的な教師だったのだろう。彼は自分が考え出したタイポロジーという写真の世界を、真似しろとは言わなかった。それに、彼は現代写真についてまとまったテキストを残していない。写真界では、彼のクラスから出た写真家を「ベッヒャーシューレ」と呼ぶことがあるが、それも自ら望んだことではないだろう。シュトルートが言っていたが、ベッヒャーは、団体で作業することも嫌いだった。

 だからこそ、引退はしていたものの、ベッヒャーには、機会があればぜひ会ってみたいと思っていた。「変成」について聞きたかったのだ。日本からの連絡に、妻のヒラは快諾してくれてはいたが、ベルントは体調が悪く、毎日通院の日々が続いていた。

 クンストアカデミーのノイエブルク教授が随分骨を折ってくれたけれどダメだった。ビデオと映画の学科で21年間教鞭をとる彼は、ベッヒャーと親交も深く、我がことのように残念がってくれた。そして、彼は僕を自分の研究室に招いて、クンストアカデミーのことについて説明してくれた。

 

「クンストアカデミーは、授業料がありません。フィルム代などのマテリアルのお金はもちろん別だけれど、どの施設も無料で自由に使える。歴史があって、かつ同時にこれほど自由な芸術のアカデミーはドイツにはないから、毎年応募者は700~800人ぐらいになる。もちろん全世界からも生徒は集まってくる。現在だって45か国からの生徒がいる。その応募者の中から、約50人が入学を許される。“マッパー”というその人がつくった20点の作品で構成したブックを提出して、それを6人の教授が審査する。そして、その50人の中から、ある人は絵画へ、またある人は写真学科へと入ってゆくことになるのです」

 

 僕が大学を訪問したとき、写真学科の生徒は34名だった。その中には新入生もいれば5年生もいる。それが同じ1つのクラスなのだ。基本的には5年間で卒業。欠員ができればその数の分だけ入学することとなる。しかし、学生と教授の話し合い次第では、5年を越えて10年近くクンストアカデミーの学生でいる者もいるという。

 

「クンストアカデミーでは、哲学やアートヒストリーなどの場合はカリキュラムはあるけれど、絵画や写真のクラスなどは、固定したプログラムはないのです。ドイツには伝統的な独特の“マイスター制度”というものが大学の勉強と並行してあって、それはどちらかというと、師匠の作品を弟子が同じようにつくるという伝統なのですが、絵画や写真の場合は、正反対で、個人のクリエイティビティを引き出す、サポートする役目に近い。そりゃあ、ベッヒャーのクラスに行く人は、既に行くときからベッヒャーの何がしかの影響は受けている。でも、そのスタイルを踏襲するなんてことは考えられない。その人自体の才能を見つけてやっていくっていうやり方なんだ。だから、学校みたいで、学校じゃない」

 
 

 ノイエブルクは、愉快そうに大きく笑った。

 そして続けてこうも言った。湾岸戦争やベルリンの壁が崩壊したときも、アカデミーの自由は揺るがなかったと。「自由というのは議論するようなことではなく、存在するものなんだ」。自由という強固な伝統がここにはある。そして、世界に広がってゆくのだ。

 クンストアカデミーには、先にも挙げたルートガング展という学内展がある。以前は、大学周辺に限られた地域のアート展だったのが、今では数万人もの観光客が訪れる名物展覧会に成長した。

 ノイエブルクが取り出した一冊の写真集は、1979年から1989年までのルートガングの記録で構成されていた。オブジェ、彫刻、絵画などの平面作品で教室や廊下が埋めつくされている。世界中のギャラリストや、美術館のキュレーター、テレビやラジオのプレス、そして今後、ここで勉強したいという人も見に来るのだと彼は言った。

 そのコトバを聞いた際、ルフに、どうしてクンストアカデミーから、あなたやシュトルートのような人が幾人も出てきたんでしょう、と質問を投げかけたときのことを思い出した。

 ルフはルートガング展のことを挙げ、「わたしたちがベッヒャーのクラスに入ったとき、写真はアートとして重要視されていなかった。ここのギャラリーは写真だけでなく、ほかのアートと一緒に写真も並べる。それがとても重要だったと思う」と言ったのだ。そう、写真もまた、アートの異種格闘技の中で鍛えられなくてはならなかったのである。

 

(つづく)