piece of resistance

36 誤解 (最終回)

なんでそんなことにこだわるの? と言われるかも知れないが、人にはさまざま、どうしても譲れないことがあるものだ。奥様とは言わない、本に書き込みはしない、ご飯は最後の一粒まで食べる、日傘は差さない……等々。それは、世間には流されないぞ、というちょっとした抵抗。おおげさ? いやいや、そうとは限りません。嫌なのにはきっとワケがある。日常の小さな抵抗の物語をつづります。

 約束の七時に五分遅れて店に現れたときから、彼はどこか落ちつかない様子だった。奥の二人席にいた私を見つけると軽くほほえんだものの、向かいの椅子に浅く腰を引っかけたときにはもう笑みは引いていた。心なしか瞳の色が暗い。
「まずは何を飲まれますか」
 ひと月ぶりですねと再会の挨拶をしてから尋ねると、彼は差しだしたメニューも見ずに店員を呼んでビールを注文し、改まって私に切りだした。
「じつは、謝らなきゃならないことがありまして」
「はい?」
「せっかくのお誘いですが、僕、今日はビール一杯だけで失礼させてもらいます。ちょっと事情が変わってしまいまして」
「事情?」
「彼女ができたんです」
 彼女。私はその二文字を頭で反芻しながら次の言葉を待った。彼女と急な約束が入った? 彼女が体調を崩している?
 しかし、伏し目がちの彼が放ったのは予期せぬ一語だった。
「ですから、あなたの気持ちには応えられません」
「どうしてですか」
 反射的に返した私を初めて彼が直視した。哀れみと疎ましさが混在した瞳。
「僕は、こういうことにはわりと真面目なんです。彼女を裏切るような真似はできません」
 どうしてですか、と再び口にする直前、私ははたと彼の誤解を悟って愕然とした。
「いえ、あの……私、そういうんじゃなくて、本当に、お礼がしたかったんです」

 そう、彼が何をどう取り違えていようとも、これはお礼の食事会だったのだ。
 某制作プロダクションに勤めている彼は、フリー契約の私が請け負っていた情報番組『ぶらり五反田』の担当でもないのに、かつて五反田に住んでいたというだけで力になってくれた。穴場スポットを教えてくれたり、五反田通の知人を紹介してくれたり。忙しい仕事の合間を縫って取材交渉につきあい、露出をためらう店主に一緒に頭を下げてくれたこともある。おかげで番組の内容が深まり、視聴者からの反応も良かった。
 その報告のメールに「お礼に一度お食事でもご馳走させてください」と添えると、「了解。じゃ、気さくに話せるビストロなんてどうかな」とすぐに返信が来た。六つ下の彼は私に対していつも丁寧語だったため、少々違和は感じたものの、まさか「お礼に一度」がこんな事態を喚ぶとは夢にも思わなかった。仕事でお世話になった相手にお礼をするのはよくあることだ。

「誤解させてしまったのなら、すみません。でも、そういうんじゃなくて……」
「こちらこそ、プライドを傷つけてしまったのなら、すみません」
 私の必死の訂正すらも、彼は独自の受けとめ方をした。
「男のけじめとして、来るには来ました。でも、やはり一杯だけにしておきます。悪く思わないでください」
 そう言うが早いか、彼は決意の程を表すようにビールを一気に喉へ流しこみ、財布から出した千円札をテーブルに載せた。
「失礼します」
 口の泡もぬぐわずに歩み去ろうとする彼を、私は慌てて呼びとめた。
「待ってください。お代は結構です」
「いえ、ご馳走になるいわれはありません」
「あります。それが今日の主旨です」
「本当にすみませんでした」
 逃げるように去っていく彼からテーブルの千円札へ目を移し、私は心から虚脱した。勝手に誤解されて勝手にふられたことよりも、感謝の気持ちをこんな形で置き去られたことがむなしかった。彼は私を仕事仲間として見てくれてはいなかったのだ。

 男と女の友情は成立するのか――学生時代、友達からよく議論をふっかけられたテーマが、ふいに頭を去来した。肯定派だった私はいつも皆から軽くばかにされていた。社会人十年目の今ではもう誰も友情なんて言葉さえ口にしなくなり、やっとあの煩わしい問いから解放されたかと思ったら、今度は形を変えてまた別の問題が差しだされる。
 男と女のパートナーシップは成立するのか?

 ビールの泡だけ残された空きグラスをキッとにらみ、成立する、と私は胸のもやつきを蹴散らすように強く思う。ごく少数の勘違い野郎のせいで、これまでこつこつと築いてきた信頼関係まで否定してなるものか。
「すみません、連れに急用が入ってしまって……」
 店員に食事のキャンセルを告げて詫び、彼が残したお札でビールの支払いを済ませた。お釣りの三百円を持てあましながら店を出ると、街はまだ明るく、ど下手なトランペットの調べが二月の冷気を震わせていた。
 私は薄着の路上パフォーマーへ歩みより、一円玉しか入っていない楽器のケースに掌のコインを落とした。
 トランペットの音色がにわかに元気づいた。

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