ちくま新書

『闇の日本美術』刊行記念対談(後編)
山本聡美×橋本麻里
古代・中世の「恐怖」マニア列伝

なぜ古代・中世日本でこのような残酷な怖い絵が描かれたのか? かつての日本人がおそれたものは何だったのか? ――ライター・エディターの橋本麻里さんをナビゲーターとして、 著者の山本聡美さんとともに「闇」の深淵をさぐる対談。代官山 蔦屋書店において、2018年11月12日に開かれたトークイベントの〈後編〉をお届けします。

(前編から続く)

――「光」を求めれば求めるほど、「闇」も深くなる

山本    平安時代とは、今日は闇の作品ばかりをご紹介しているので、本当に闇の時代のように思えますけど、一方で平安仏画という、日本の美術史のまさに光の最高峰の世界を生み出したのも同じ時代なのです。
橋本    そうですね。「きらきら」の世界。「ぎらぎら」じゃなくて。
山本    闇を恐れるエネルギーは、一方ではその闇を深く深く掘っていくほうに向けられ、一方では、どうやったら光の世界へ到達できるのかというほうへ向かっていく。その両方に、絵画というイメージの世界がかかわってきた。絵画を使って今まで見たことがない世界を探求していく、開いたことのない扉を開いていく。
 一度開かれた扉の奥に、次、次、次、……と連続して次の扉があって。結果として後白河の周辺には非常に数多くの絵画作品、しかもそれまでになかった新しいものが生み出されてきた。
 扉の先に光があって、私は本書の最後に「平家納経」を取り上げました。「平家納経」はまさにこの12世紀の光の結晶ともいうべき装飾法華経です。でも、ここに表現された光って、とても怖いと思います(笑)。
(編集部注:『闇の日本美術』口絵・本文エピローグに図版掲載)
橋本    落日の光という感じですか。朝日なのか落日なのか、わかりにくい感じではありますが。
山本    平家一門というのは、軍事貴族ではあるけれども、藤原摂関家のような朝廷の中枢を担う人々とは全く違うところから出てきた。また、彼らが生きた京都というのは、先ほども触れた多数作善、光を追求していくような時代にあった。その時代の中で清盛は、その先のバロック的な造形感覚にまで一歩踏み出した人なのではないか、というふうにも考えられて、それが形として表れているのが「平家納経」なのではないかとも思います。この過剰な光、……。
橋本    強烈ですよね。これが、当時の貴族たちからではなくて、滅びゆく平家の中から生まれてくる、というのが象徴的で。
山本    そしてあとの時代につながらないんですね、この「平家納経」のきらびやかさというのは。同時代の貴族たちにとっても違和感のある光であっただろうし、あとの時代の鎌倉時代の美術の中にも、これだけの強烈な光は受け継がれていかない。平安時代の光の追求の最後にやってきて、それを一歩逸脱して、その頂点でばちっと消えて彼らは歴史の表舞台からいなくなってしまう。海の藻くずと消えてしまうという、一瞬の光でした。
橋本    だから、源平と言いながら、源氏と平家では全く違いますね。
山本    違いますね、性質が。源氏は、頼朝は貴族的な文化から一線を画そうとするんです。
橋本    あえて一線を引くような。そこに組み込まれない、その価値観に飲み込まれないことで、優位を保つ。
山本    で、鎌倉に幕府を開く。
橋本    相手の土俵に乗っちゃいけない。
山本    京都にも足を踏み入れない。多数作善に熱狂する同時代の京都は、怖い場所なんです。過剰なイメージ戦略のるつぼに下手に足を踏み入れると、平家のようなことにもなってしまう。とてつもない莫大な富をここにつぎ込んでいくこととなってしまう。その滅びの道を、あえてそのど真ん中で引き受けて、さらに天寿を全うしたのが後白河上皇なんですけれども(笑)。
橋本    そうですね。
山本    滅びのメカニズムに挑んで、それを支えきれなくなったのが平清盛ではないか。逆に遠くから距離を取って見ていたのが頼朝であったと。