ちくま文庫

『被差別部落の伝承と生活』解説


 この書物がどうして生れたか、何が意図されていたかについては、中山英一さんが「『被差別部落の伝承と生活』に寄せて」のなかで、つぎのように端的に表現されています。

 ”差別の中で生きぬいてきた部落の人たちに素晴らしい生活と文化がある。この発掘を通して「部落民」に誇り得る人間としての自信を与え、部落解放運動に役立たせよう”と、期せずして二人の意見が一致したのです。

 中山さんが古老からの聞き書きを残そうと思い立たれた動機は、私が直接ご本人からお聞きしたところによれば、つぎのとおりでした。

 長い間部落差別を受けてきた人々は、自分たちのことを生来劣ったもの、卑しいものと思い込まされてきた、しかし、実際は部落にすばらしい生活と闘いがあり文化がある、このことを部落の仲間が知って自信と誇りをもって生きられるようにしたい。

 しかしながら、既成の部落民観の破壊、これに代わるポジティブな部落民観の提出という企画がいかに素晴らしくても、部落の古老の方々が口を開いて下さらなければ、目的を達することは不可能でした。結果としてこれが可能となったのは、まったく中山さんの人柄と活動のおかげでした。「同和対策事業特別措置法」が施行される以前の時代でした。長野県内で開かれた学習集会で、お年寄りから、いくら子どもの教育手当を要求しても出ないではないか、と批判とも嘆きともつかない発言が出ていました。それでも県内での解放運動は大衆的に展開されていました。中山さんが地をはうように県下の全部落をまわり、誠実かつ地道な活動を蓄積されていたことが大いに与っています。訪れた先々で、夫婦喧嘩の仲裁を頼まれたり、子どもの宿題をみてやったり、生活のレベルで接しておられました。
 中山さんは、十歳ころから二十歳ころまで、みずからの出自に関しシャガシャガ(佐久の言葉で心がおそれおののくさま)していたとのことです。体験した差別への怖れについて次のように述べておられます。

 他所へ出て知らない人から自分の住所や氏名を聞かれることが一番いやなことであり、恐ろしいことでした、正直に住所と氏名をいってしまえば、「部落民」であることがわかってしまうからです。その不安と恐怖は、血がいっきにひけ、胸がつまり、息がとまり、足がふるえ、そのまま消えてしまいたいあのときの体験を忘れることができません。                    (「『被差別部落の伝承と生活』に寄せて」)

 その後、差別からの解放を生涯の課題とすることに転じた中山さんは、あの松本治一郎さんのところの書生になり、早稲田大学を卒業後、黒地に赤い荊の冠を染め抜いた旗のもとに馳せ参じ、二十五年間にわたって部落解放同盟長野県連合会の書記長を務められ、その間に起こった五百件に及ぶ部落差別事件に対応されました(克明なノートが残っております)。したがって、中山さんは高等教育を受ける機会に恵まれなかった部落大衆と同じように差別への怒りで心臓を鼓動させてこられました。まさに、抑圧された大衆の内側から生れたいわゆる「有機的知識人」(サルトル)でした。このような大衆と有機的につながった活動のなかでこそ、これまで表現されることのなかった部落大衆のポジティブな面、すなわち、「もっとも人間らしさを誰よりも強く求めて、ダイナミックに生き、人間愛、団結力、バイタリティ、創造力、強く、早く等々、優れた実力と、誇り得る面を、現実生活のなかから具体的に自覚することができた」のであり、これらを記録化して活用する発想も生れたのでした。
 信州の部落・古老からの聞き取りは、中山さんと著者のペアで行われ、聞き取り結果の文章化は著者に託されました。中山さんは「被差別民衆の心と美しさを詠んだ一茶」(『部落解放』一九八九年十二月号)、『人間の誇りうるとき』(一九九三年解放出版社)、『私を変えた源流 人権文化の創造者たち』(一九九七年日本同和新報社)、『被差別部落の暮らしから』(一九九八年朝日選書、二〇一四年朝日文庫)なども書かれておられるし、部落問題にかかわる論文では社会学的手法を駆使されておられます。聞き取り結果を自らの手で記録することは十分可能でした。何故運動歴・学識なく、部落問題の研究者でもなかった著者に依頼されたのか、前掲文では著者が部落問題に対し本気だったからという趣旨しか述べられていません。
 思うに、中山さんは被差別部落出身者の心は、絶対的に当事者間にしか通じないとは考えておらず、むしろ人の心の動きは、適切に表現される限り人の心に伝わり得るものであり、これは差別を受ける当事者とそうでない者との間でも本来は変わるものではなく、むしろこうした捉え方こそ、生れながらに人は平等であることを心理面からも裏付けるものであると考え、両者の間に橋をかけ得る適切な表現者を求められたのかも知れません。
 私の配偶者であった著者柴田道子は、戦争中の学童疎開の体験に基づいて書いた『谷間の底から』(一九五九年東都書房、一九七六年岩波少年文庫)で世に出た児童文学者でした(この関係では故鶴見俊輔さんのお蔭を蒙っています)。子どもに寄り添うという日常の習性は、古老からの聞き取りのさいにも、語り手に寄り添って受け止め、微妙な感情の動きもナイーブに移入するという仕方で、活かされたものと思われます。実際に語られた信州言葉を活かしつつ、なめらかな活字の文章に整理されて読む者に伝えられる上、当事者間では暗黙の了解で言葉が省略されてしまうであろう事柄も読者の理解に支障がない仕方で表現されているためでしょう、あたかも眼前で当事者から話を直接聞いているような一種透明な臨場感があります。このような効果を予測し得た中山さんの叡智の賜物ではないかと思われます。
 また、著者は男社会のなかの女性として蒙らざるを得なかった自らの被差別体験に基づく感情移入も加わり、ごく自然に差別事象とそこからの解放という視点から人々の生き様に共感し、敬意を払いつつ文章化したものと思われます。
 著者は性格的には、感じやすく、愛情が深く、人に優しい心の持ち主でした。童話を書いていたことが本書を書くうえでも役立ったものと思われます。子どものころから健康に恵まれず、本人によれば、「みそっかす」扱いされていたということでした。にもかかわらず仕事のうえでは頑張り屋であり、死の直前まで朝日新聞社から依頼された狭山事件の原稿の執筆に打ち込んでいました。

 本書「第一部 伝承と歴史」のなかに、「おともさんの青春」という項があります。ここには松代藩統治下の部落を支配したお頭の横暴―配下がその娘の婚約を巡って筋を通し、お頭の嫁取りを拒否したことに対して土地から追放されたという話(配下の部落民に対するお頭の露骨な差別的権力支配 二重の差別)、時代が下がって、追放された一族に属する美人のおともさんに恋した小学校の若く純情な教師が住居侵入罪でおともさんの父から訴えられ、千曲川に身投げした話(父の対応は「部落民である娘と教師とでは、本人同士がいくらよくても、結局はまわりにぶちこわされる。どうせ夫婦になれぬ身、遊んで捨てられるならいっそ突き出して別れさせてしまえ」という「社会から差別されることへの抵抗」)が述べられています。(注・結婚差別によって自死するのはほとんどが部落の側でした。前掲中山著『被差別部落の暮らしから』によれば、中山さんが対応した五百の差別事件のうち命にかかわった事件が二十六件あり、ここから中山さんは「差別は命を奪う」という警告を発しておられた。差別による自殺十二件のうち九件、自殺未遂十三件のうち十件が、それぞれ被差別部落出身者。心中未遂が一件)
 その後、おともさんは、牟礼の人と結婚しますが、四人姉妹の末娘で姉三人がすでに嫁いでいたので、両親を引きとるという約束を相手から得ていました。ところが、夫が約束を守らず、実家で病死した父の遺骸が無惨にもネズミに食い荒らされたことを見たおともさんは、嘆き怒り、終生夫と三人の子のいる家へ帰らなかったという話が述べられています。
 女性を含めて、この世的には不利になっても、己の筋を通した人々の強い生き様が人々の間で語り継がれていたのでした。

 「第二部 生活と文化」のなかに、「孤独な老女」という項があります。北国街道筋の地区を訪れたとき、男衆は日雇いで出払い、残っていたひとり(六十二歳)がちょっと近所を走り回って招いた八十三歳、八十一歳、六十九歳の三人の老女からの聞き取りがなされています。昔は差別がひどかったということ、食生活が極度に貧しかったことが具体的に語られています。彼女らは「今は盆と正月が毎日」といいます。差別されることへの恐怖と日々の糧の欠乏という酷薄だった往年の体験から由来する言葉と思われます。著者は、「こうした老人の思い出をたぐるという柔和な作業の中に、私は、部落の年とった人たちの激しい生命の葛藤のあとを見てきた」と記しています。
 また、「織姫―女の一生」における七十九歳の女性は、十二歳で桐生の機織り工場の女工に出され、三年後、部落の娘ばかり四人で逃げ帰ります。危険をかえりみず(当時女工の逃亡は警察沙汰であった)、逃避行を手助けしたのは同じ部落の親切な男でした。彼女は、結婚後、夫が道路工事中の事故でなくなり、残された五人の子を食べさせることに精一杯で、着物は一枚で通しました。子らをみな成人させましたが、息子三人は徴用・戦争にとられ、一人は戦死、戦争が戦中・戦後の彼女の生活に計り知れない大きなダメージを与えています。彼女も今は正月と盆のような毎日だといっています。そこには我が子のため全身を捧げた苦闘によって、苦境を凌ぎ続けた己の人生に対する自負の念が込められているかのようです。
 「第三部 水平社の闘い―高橋市次郎老聞き書き―」については、一転して、これこそ本物の部落解放運動と感じいってしまう展開です。読むものをして引き込んでしまうのは、もちろん、戦前の佐久水平社とリーダー高橋市次郎さんの非妥協の闘いがすばらしかったからにほかなりません。
 すなわち、一九二六(大正一五)年の警察官の差別発言を糾弾した闘いの勝利(警察の譲歩を勝ち取る)、一九二七(昭和二)年ころの瀬戸の区有林闘争の勝利(区有林に入ることを区に認めさせる)があり、一九三〇(昭和五)年の沓沢の入会権等要求の闘いに対する地区の頑迷な抵抗に乗じた警察の大弾圧事件では、リーダーだった当時四十二歳で九人の子持ちだった高橋市次郎さんが暴力行為取締法違反では最高の懲役二年の実刑に処せられるなか、彼は検察官が意図した荊冠旗の没収処分を断固としてはね返したのでした。これらを反映して、第三部における著者の筆も、ひときわ活き活きしています。

 本書『被差別部落の伝承と生活』が最初に出版された二年後の一九七四(昭和四九)年一〇月、東京高裁は狭山事件・石川一雄さんの有罪を維持しました。その翌年著者は狭山に移住し、現地での弁護活動に協力する傍ら、朝日新聞社から依頼されていた狭山事件の本を執筆中でした(予定原稿枚数五百)。持病のぜんそくが急に悪化し、一九七五(昭和五〇)年八月一四日午前二時四〇分ころ救急車のなかで絶命したのでした(享年四十一歳)。著者の最期の思いをわがものとするべく、私も爾来四十三年余石川一雄さんの無罪を目指してまいりましたが、未だ目的を達成し得ず、申し訳ないと思っております。
 狭山闘争がもっとも盛り上がったのは寺尾判決(確定判決)がでた一九七四年一〇月三一日の日比谷公園の十万人集会ではなかったかと思われます。

 その前年一〇月二六日に東京都中野区の都立富士高校で発生した放火事件の容疑で、一人の部落青年が逮捕され、同年一二月二八日起訴されています。一九七五年三月七日の一審判決で無罪、一九七八年三月二九日の二審判決で検察官の控訴棄却(無罪確定)。国家賠償請求訴訟では慰謝料三百万円の賠償が確定しています。
 この事件は、放火ということで、中野署ではなく警視庁が担当しました。
 放火の点につき一九七三年一一月一三日から一二月二三日まで合計七〇時間九分の取調べがなされています。このなかで、つぎのとおり狭山事件を援用しての追及がありました。
 「定時制の生徒は全日制に対するコンプレックスから火をつけたと発表されれば世間の人は誰でも納得するんだ」「お前は同性愛者という精神異常者で家系を調べたら部落民じゃないか、狭山事件のように部落の人間はたとえ人を殺していても『私は無実です』という人非人の種族だ」「お前が放火していないことは知っているが、お前にこれだけ不利な条件がそろっていれば助けようがない、検事や裁判官もお前の生いたち、性格、経歴をみればどうしても犯人にするしかないんだ」等々(「展望」一九七五年六月号)。
 以上にみられる捜査官の狭山事件理解は、確定判決を含むその後の八つの裁判所の有罪判断によって司法の世界、さらには広く体制寄りの意識をもった人々の間で益々うち固められているおそれが拭えません。この「人非人の種族」なる決めつけは、狭山再審にかかわるすべての人に向けられていることになります。石川さんが無罪を勝ち取ることは、日本から部落差別をなくす大前提です。しかし、石川さんの無罪確定は、差別解消へ向けての大前進ではありますが、部落差別の根絶に直結するわけではなく、高橋市次郎さんが「この運動は一代こっきりのものではなく、どこまでやってもこっちに百万長者がいる時、あっちに食えない者がいるうちはだめだ。部落差別もなくならない」というように、金持ちと貧乏人がいる限り、そして天皇からの距離の近さ・遠さによって人の格付けがなされるような世の中である間は部落差別はなくならないものと考えられます。
 二〇一四年から今日まで続く長野市内に起こった差別事件の経緯は、部落差別の根深さをよく示しています。この事件は「長野市内近隣住民連続差別事件」と呼ばれています。〇〇町に住む被害者B子さんの真ん前に引っ越してきた加害者A男は、B子さんとその家族に対し、「部落民」「チョーリッポ」「ヨツ」「畜生だ」「人間じゃねぇや」「〇〇町から出ていけ」などと執拗に差別発言を続けるので、裁判所から差別発言禁止仮処分を得ました。それでも止まらないため、強制執行の決定をも得ましたが、A男はB子さんに対する暴行事件を起こし、六カ月の執行猶予付懲役刑に処せられました。判決後一カ月も経つとA男はB子さんを新たに「精神病者」として執拗に精神障がい者差別発言を繰り返すため、再度、差別発言禁止仮処分を得ました。それでも止りませんでした。
 たまたまA男は万引き事件を起こし、懲役の実刑に処せられました。B子さんは、収監中のA男に対し、民事訴訟を起こしました。判決に代わる和解手続きでA男はB子さんとその家族に謝罪し、自分の発言が被差別部落の関係者全員に対する差別であったことを認め、出所後B子さん側からの要望があれば、関係行政機関や関係団体との話し合いの場に出席することを書面で約しました。
 出所後のA男がB子さんに対する上記約束を守るかどうかは予断を許しません。
 この事件の体験からはっきり言えることは、数年にわたる執拗極まる差別発言を即刻止めさせ、侵された人間の尊厳を直ちに救済し得る法的仕組みが何ら用意されていない不備・欠陥です。名誉棄損罪や侮辱罪に基づく告訴は、警察も検察も検察審査会も取り上げてくれませんでした。
 市役所の人権担当部局はある程度動きましたが、有効な手段をもたず、法務局の人権擁護委員会や保護観察所にいたってはそよとも動きませんでした。行政が部落差別を温存していると言いたくなるような限界を体験しました。

 差別への激しい怒りを燃やしてきた高橋市次郎さんは、「われわれの子どもたちには、こんな差別を経験させたくない。たとえ自分がこの闘いの中で殺されるようなことがあっても、子どもたちに差別のない世の中を残したいということにつきる」といっておられます。
 「差別によって命が奪われる」部落と「ぬち(命)どぅ宝」を高々と掲げる沖縄とは、命の根が共通です。今日沖縄では「構造的差別」(故新崎盛暉さんによる沖縄差別の本質表現)を打ち破って子や孫のために平和な沖縄を残すべく、海陸両面で国家権力に対し身をもって対峙する住民の闘いが日々繰り広げられています。

 社会に厳存する諸々の差別が、一人一人の内なる差別の集積にほかならないとすれば、個々に内にあって自他の尊厳を蝕む差別の克服のためには、差別をなくす社会的闘いへの具体的参加が必要であり、かつそれによってのみ一人一人の内なる変革と大きな社会変革の展望とが同時にクリアになってくるはずです。

 最初の出版後四十七年、著者没後四十四年にして筑摩書房から文庫本として再び世に
出していただいたことには大きな社会的意義があると思います。

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