ぼくはこんな音楽を聴いて育った・東京編

第4話 ダンパとランサーと
――カウント・ベイシー・オーケストラ「エイプリル・イン・パリ」、竹内まりや「ビギニング」、オーネット・コールマン「タウンホール1962」

1979年初夏。ウブだった頃の大友青年はジャズ研で楽しい日々を送るが……。

「えええっ、もしかして、まりちゃん?」  

 もう数年前の話になるけど、新宿のPIT INNでライブをやっていたら20歳くらいの女性に声をかけられて、それがですね、30年以上も前のジャズ研同期のまりちゃんに生き写し。でもいくらなんでも年があわない。この子が笑顔で、

「母が大友さんと同期だって言ってましたよ~」

と話す声までまりちゃんと同じで、心臓が止まるかと思ったがな。

 

 前回のつづきです。時は1979年初夏、ところは西荻窪のバー「ピナコタ」、

「可児さん、可児さん、あのさ、桃井さんに全然会えないんだけど本当にあそこに住んでるの」

「あ、あれね、たいぶ前に越したらしいよ。あはは、純情やね~大友くんは。桃井さんよりさ、彼女とかおらんの。ジャズ研にかわいい子おらんの? ねえ、ねえ。いたら紹介してや。あはは」

 あははじゃないよ、もう。

 え~、ジャズ研にはもちろん女子もいました。ジャズ研だけじゃなく軽音楽部という大きなくくりの中には、ロックをやっている部もあれば、ビッグバンドもあったり、カントリーっぽいアメリカン・ロックをやる部もあって、いくつかの部で部室をシェアしている感じで、基本男子が7、8割だっだけど、巨大な部だったんで、同期や先輩の女子たちが結構いたんです。冒頭に出てきたまりちゃんをはじめ、ひろみちゃん、けいちゃん、らー子、ゆりちゃん、一つ先輩のまきちゃん……ほかにもたくさんたくさん素敵な子たちがいました。とはいえ可児さんには紹介しなかったけどね。てか、それ以前に、オレ、女子に気軽に声がかけられなかったんです。気になっていたくせに(特にまりちゃんが気になってたんですが、これはまりちゃんの娘さんが読むといけないので内緒ね)、男子校出身だったオレは女子とつるむことができず、つるみ方も知らず、なんだか野郎とばっかいたなあ。野郎とスピーカーに耳くっつけてローランド・カーク最高とか言ってるのって、今とあんま変わってないか。変わってないですね。

 

「可児さん、オレ、彼女どころか女の子に声もかけられないっす」

「大友くん、君は大丈夫! 今はまあ垢抜けない。確かにダサい。でもね、25すぎたらモテるから。手相見せてごらん。ほら、やっぱりそうだ、うん、25すぎたらモテる。え、今モテたいって。わかった、わかった。んじゃ、ジャズ研の娘つれておいで。つれてきたらモテるようになる。オレがなんとかする!」

 無理、無理! やっぱ、連れてこれないや。

 ジャズ研の日々は、なんだかとっても楽しかった。毎日部室で演奏できて、夜はきまってどこかに繰り出していたし、定期演奏会でステージにも立てて、そのうえ皆で合宿に行ってわいわいやったり、ときにダンスパーティのバイトに行ったり。当時はこのダンスパーティをダンパと呼んでいて、いろんな会社やら工場なんかの寮で週末にやっていて、そこに行って僕らは生演奏をやり、工場のみんなはそれにあわせて踊ったり……ディスコと社交ダンスが混じった感じだったけど、こんなものは今はもう存在してないだろうなあ。オレがはじめて行ったダンパは、たしか調布のほうにあったキユーピーマヨネーズの工場の食堂で、サックスが先輩の星野さん、オレがギターで、他にエレピ、ベース、ドラムの5人編成だったと思う。星野さんはものすごくサックスのうまい先輩で、

「大友さあ、1、2曲、ジルバとかルンバのステップが踏める感じで、なんか皆の知ってる曲アレンジしてくれないかな」

 星野さんの頼みだもん。オレは張り切った。ということで生まれて初めてこのときアレンジというものをやってみたのだ。曲は、部室にころがっていた古いスタンダード集の中から皆が知ってそうな曲をもってきて、リフをつけてジルバが踊れるようなリズムをつくってみたり、たしか「マイアミ・ビーチ・ルンバ」って曲もやったような記憶が。自分のアレンジでみんなが楽しそうに踊っているのをステージから見るってのは独特の気持ちよさだった。以前福島のキャバレーで演奏していたときにはそんな気分には全然なれなかったのに。

 このバンド、サックスの星野さんだけじゃなく、ベースの渡辺さんもものすごくうまい人で、この人はベースだけでなくギターの腕前もオレよりはるかに上手くて、ドラムは野口さんだったかな、福本さんだったかな。もしかしたら後々プロになった石川さんだったかもしれない。そんな人たちとやれるだけでも嬉しかった。でも、一番嬉しかったのはエレピがまりちゃんだったこと。でもさ、こんなんでオレいいのだろうか。フリージャズをやろうと思って東京に出てきたのに、こんなに楽しい毎日でいいのかな。ダンパの演奏で盛り上がってていいのかな。あいかわらずギターの腕前は大して上がってないし。

「大友、おまえさ、リズムもっと勉強したほうがいいぞ」

ダンパの帰り道、憧れの星野先輩に言われた一言でしゅ~んとなってしまう程度の実力だったのだ。

 憧れの東京に出てきて数カ月。ジャズ研の楽しい日々だけではなく、新宿PIT INNや歌舞伎町のタロー、西荻のアケタの店にかよっては、高柳昌行や山下洋輔、富樫雅彦、佐藤允彦、吉沢元治といった大御所から、豊住芳三郎、中村達也、坂田明、近藤等則、翠川敬基、藤川義明、梅津和時、原田依幸といったそれより少し若い中堅の人たち、さらにオレよりちょい年上くらいの人たちがやっているニュー・ジャズ・シンジケートを法政大学の学館ホールで見たり、渋谷のプルチネラや荻窪のグッドマンで謎の即興演奏を見たり。福島では見られなかったフリージャズのライブをたくさん見ることができて、それはそれでものすごく興奮したんだけれど、それも最初のうちだけで、年中ライブに行けるほど金があるわけもなく、なによりその中に入っていけなかったこともあって、だんだん足が遠のいてしまったのだ。ジャズ研の先輩たちは、当時オレの目には本当に上手く見えて、なのに自分はそんなレベルにも達してない。そんなんでさらにそのもっともっと先にあるフリーになんか行けるのかなと思ったら怖気づいてしまったのだ。夏も終わる頃にはライブに行くペースも鈍ってしまった。それでも、東京で出会った人たちと楽しくやれて、ジャズ研もぬるくて楽しくて、おまけにバイト先でもそこそこ重宝されて、それはそれで居心地がよかったんだと思う。いつのまにかフリージャズをやりたくて出てきた気持ちがどっかに行ってしまいそうな感じだった。そんなんでいいのだろうか? 楽しいだけじゃまずいんじゃないか? でも楽しいしなあ……。

 

 そんなこともあってなのかな、東京に出て数カ月、秋も深まってきた頃オレはだんだんイライラするようになっていた。我ながら器がちっちゃくて情けない。そのうち自分のアパートが溜まり場になっている状態にも苛立つようになり、ついにある日、たまたま、ほんとうにたまたまなんだけど、いつものように泊まりにきた大森くんに八つ当たりしてしまったのだ~。

「おおとも~~、おさき~」

 大森くんはなぜかウチの鍵までもっていて、まあいつものように家にあがって先に風呂屋にいってタバコをくわえてチャーリー・パーカーを聴きながらくつろいでいただけなんだけど、そこに不機嫌なオレが帰ってきたのだ。

「あのさ、ここ大森くんちじゃないし、オレ、ギターの練習したいし、なんでいつもいるの。タバコもやめてくんないかな! 部屋くさくなるし、それにオレ、パーカーじゃなくてローランド・カークが聴きたいし」

 このときのこと、今思い出しても情けなくて……。オレは一番たよりにしていた大好きだった大森くんに当たってしまったのだ。

 

 その年の冬、オレは代田橋のアパートを越すことにした。一人になってからも隣のおじさんに気を使って音を出せなかったのもあったし、なにより気分を変えたかったんだと思う。新居は阿佐ケ谷。阿佐ケ谷にしたのは、高校時代にYさんの影響で聴いた友部正人のアルバム「にんじん」にでてきた地名だったのもあったけど(このへんは本になった前回の連載を参照してね)、一番の理由は、四畳半一間で木造一軒家2万5千という謎物件を見つけてしまったからだ。ここなら心置きなく音楽が聴けて楽器も練習できる。

 オーネットの先輩松藤さんが車を出してくれて、ハヤシやスズキも手伝ってくれて早速引っ越しが始まった。松藤先輩は大学生なのにボロボロの茶色いランサーを持っていた。当時は車を持っている大学生なんてまわりにいなかった。でも、松藤さんが金持ちの家の子だったわけでは特になく、なんで持ってたのかは知らないけど、オレは本当に重宝してよく借りていた。今思うと迷惑だったんじゃないかな。この車で代田橋から阿佐ケ谷を3往復。カーステレオからはなぜかカウント・ベイシー・オーケストラの「エイプリル・イン・パリ」と竹内まりやの「ビギニング」そしてオーネット・コールマンの「タウンホール1962」がループして流れている。いったいどういう趣味してるんだろうこの人は。当時のカーステレオはもちろんカセットだ。オーネットはともかく、古めかしく聴こえたベイシーも、オシャレな感じのする竹内まりやも最初はまったく受け付けなかったんだけど、その後もよく乗ったこの車で繰り返し聴かされているうちに、いつのまにか体に馴染んでしまい、ついにはランサーに乗ると自分からこの三つをループで聴くようになっていった。当時の学生たちがよく聴いていたのはYMOなんかのテクノポップだったり、山下達郎や竹内まりやなんかのシティポップだったりしたけれど、その辺の音楽が何となく苦手だったオレにとって、松藤さんの車で聴いた竹内まりやは、当時の普通の学生たちとの唯一の共通音楽体験だったんじゃないかな。これがなければ、のちのち大瀧詠一の良さに気づいたり、アメリカンオールデイズの面白さに気づくこともなかったかもしれない。それにしても当時テクノポップやシティポップが苦手だったのはですね、今考えると、東京に出てきたのに、いつまでたっても垢抜けなかった田舎少年故のやっかみもあったんじゃないかな。なんかオシャレだし、なにより楽しそうにしやがってみたいに思っていたからだと思う。それにしてもさ、オレ、なんで楽しそうにしちゃまずいってあそこまで思っていたのだろうか。すぐに楽しくなる性格のくせして、楽しそうなもんに強い抵抗を感じていて、あ~ややこしい。20歳の男の子って、バカなくせしてほんとうに面倒臭い生き物なのだ。

 同じ頃「ピナコタ」があった古い建物が取り壊しになった。ローランド・カークやコルトレーンを聴いた僕らジャズ研1年生の溜まり場がなくなってしまったのだ。いつしか大森くんとも疎遠になり、それと入れ替わるようによく行くことになったのが新宿は歌舞伎町にあった「ばるぼら」って店なんだけど、その話はまた次回。疎遠になった大森くんとは、何十年も経った東日本大震災直後に福島で頻繁に会うことになるんだけど、その話はまあここでしなくてもいいか。

 

 

 

 

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