筑摩選書

日本が亡(ほろ)びないための鍵、それが九条

筑摩選書6月刊、大澤真幸さん編集『憲法9条とわれらの日本』の冒頭を公開いたします。本文では井上達夫さん、加藤典洋さん、中島岳志さんとの対談が収録されています。

「亡(ほろ) びるね」と言った。……夏目漱石の『三四郎』に、主人公の三四郎が、熊本から東京へと向かう汽車の中で出会った髭の生えた仙人ふうの男にこう言われて、びっくりする有名な場面がある。日本が日露戦争で勝ったすぐ後の頃である。三四郎が「これからは日本もだんだん発展するでしょう」などと気軽に言ったことに対する、髭の男の回答が、この「亡びるね」だ。このとき三四郎は、男に名前も聞かないのだが、後に彼が広田先生であったことを知る。広田先生は、「亡びるね」発言のすぐ前には、日本が自慢できるものといったら富士山くらいしかないが、富士山は「天然自然に昔からあったもの」であって「我々がこしらえたもの」ではないのだから、それが日本人としての自信の根拠にはならないといった趣旨のことも語っている。

 このまま行けば日本は亡びるね。この予言は、三四郎が広田先生と東海道本線の汽車に乗り合わせた一世紀以上前よりもいっそう、現在において真実である。私はそう思うし、同じ思いを共有している人は少なくないだろう。実際、三島由紀夫は、半世紀近く前の戦後二五年にあたる年に、つまりは自刃の四カ月ほど前にこう書いている。

   私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく気にもなれなくなつてゐるのである。(「私の中の二十五年」)

 広田先生は富士山しかないと嘆き、三島は天皇しかないとして自衛隊の駐屯地に走ったわけだが、私は言いたい。我々には憲法が、憲法九条があるではないか、と。九条こそが、日本が亡びないための最後の鍵である。仮に、将来、なんらかのかたちで九条を書き換えるにしても、九条において提起されている主題を徹底的に考えぬき、引き受けることだけが、「日本」がなくならないための条件である。

 日本国憲法については、「我々がこしらえたもの」かどうかということについて、さまざまな議論がある。憲法が、占領軍がいて日本が主権をもっていないときに創られたことは確かである。しかし、そのことは重要なことではない。

 それよりも、驚異的なのは次のことである。九条の文字通りの内容は、世界史に類例がなく、とうてい普通の国家の憲法の条項とは思えないこと、これは押し付けられたものだと主張する人が常にいたこと、そして何より、自衛隊があり日米安保条約があり、九条が字義通りに実行されているようには見えないこと、また、戦後七〇年の間に何度も、海外に派兵できた方が都合がよいと思える情勢があったこと、憲法を日本に与えたとされている「アメリカ」でさえも今では日本の憲法の九条がない方がよいと思っていること、これらすべては、九条をさっさと変えたり、放棄したりした方がよいということを含意している。それなのに、日本人はそうせず、あるいはそうすることができず、九条に執着し、同じような議論を繰り返してきたのだ。これこそ驚きではないか。つまり、日本人は自分でもよく自覚できていない衝動によって九条に執着し、九条に魅了され、これを異様な努力によって維持してきたのである。九条は、日本人にとって「こしらえたもの」以上である。戦後の日本人は九条を、ほとんどそれだけを拠(よ) り所としてきたのだ。

 日本が亡びないための鍵は九条が提起している主題を引き受けることにある、と述べたのはこのためである。どうして九条がこれほど特別な価値をもったのか。それは、日本が実際に一度亡びたからではないか。広田先生の予言は、およそ四〇年後に的中し、実際に、日本は総力戦に完膚なきまでに敗れ、ほとんど亡びた。この敗北を通じて獲得した「よきもの」、ただ一つのよきものが、憲法九条だったのではないか。九条を忘れれば、日本人は敗北の時点に差し戻され、二度目のほんとうの滅亡を体験することになる。

 しかし、これほど重要なことであるにもかかわらず、憲法九条をめぐる一般の議論はあまりにも浅い。九条があった方が得だ(あるいはないほうが得だ)とか、せいぜい「喧嘩はよくない」(あるいは「ボスと一緒に喧嘩をすべき」)とかといったレベルの議論が中心である。それは、「無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない」人の議論だ。「亡びるね」の後、広田先生は三四郎に続けて言う。「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」で少し間をおいて、「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と。さらに広田先生は付け加える。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓の引き倒しになるばかりだ」と。今のところ、九条をめぐる議論の主流は、「贔屓の引き倒し」の範囲に留まっている。日本を思い、九条のことを考えるならば、九条を、日本より広い頭の中に置かなくてはならない。

 私は本書で、中島岳志さん、加藤典洋さん、井上達夫さんに、憲法九条について質問し、それぞれの論者の考えを引き出している。なぜこの三人なのか。憲法学者に関しては、すでに私は若手の俊英木村草太さんと一度対談をさせてもらっている。今回は、憲法を外側から対象化したかったので、憲法そのものが専門ではない方々の見解をうかがった。それにしても、どうしてこれらの方々なのか。

 三人の方々は、九条にどう向かい合うべきかについて、たいへんはっきりとした考えをもっている。結論はすべて違う。ただ、どの意見も、通り一遍の「護憲/改憲」の枠には収まらない。そして何よりも、各論者はきわめて深い論拠に基づいて、それぞれの九条論を展開している。まさに、日本より広い頭の中での自由な議論である。いずれも非常に説得的である。本書に登場する三人は、こうした深みにおいて九条について考えている、ごく少数の論者の中に含まれる。

 私が質問者になっているのは、そうした方がそれぞれの論者の見解を分かりやすく読者に伝えることができるからである。どの論者も、著書や論文やネットで、自分の考えを発表しているが、私の質問を媒介にした方が、より明快に伝わったはずだ。どの論者も、頑固で分かりの悪い私を納得させなくてはならないからだ。私は特に論拠についてうるさく質問し、それぞれの論者の結論がいかに深い考察の上に築かれているかを明らかにしたつもりだ。

 最後に、ただ質問しているだけでは無責任なので、私自身の考えを論じている。自分にインタヴューすることはできないので、これは筑摩書房の会議室でなされた講義である。幸い、聴講した編集者たちの質問が実に鋭かったので、講義後の質疑応答をそのまま採録した。 

 一般に流布している護憲論と改憲論のどちらも腑に落ちない人は、是非、本書を読んでほしい。繰り返すが、ここには、日本が亡びないための鍵がある。

 

 

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