高橋 久美子

第9回
私の彼方

エッセイ集『いっぴき』(ちくま文庫)も絶好調の作家・作詞家の高橋久美子さんの連載です! 彼女にしか紡ぐことのできない言葉たちで、日々の生活を鮮やかに描きます。〈作家・高橋久美子〉の新しいスタートを告げる連載は、毎月第4水曜日の更新になります。

 

 右に5、左に7。あれ? 右に7左に5だったかな。引っ越して半年もたつのに、私は郵便受けを一回で開けられなかった。良い気分で帰ってきても、この箱を開けると現実に引き戻されるから、そもそも私が率先して開けることがないのだ。よって私に郵便配達してくれるのはいつのまにか夫の柊介の役目になっていた。その柊介が海外へ撮影に出かけて一週間、さすがにまずいなとダイヤルを回してみたがこの有様だ。思い当たる番号をしばらく回して、何度めかにやっと開いた途端、紙の束がばさばさと滑り落ちてくる。カレー屋のちらしとAmazonから届いた本に挟まれるように「マイナンバーカード提示のお願い」と書かれた封筒がいくつも目に入ってため息が出る。
 東の空が白んできたようだ。結局今日も朝帰りだ。電柱に止まったカラスが緑のネットの中のものを狙いにきている。こういうことをしないでいい代わりに私は囚われの身なのだと思った。人間に生まれた瞬間から殆どのことは、前に生きた人が決めてくれており、私の選べることなんてほんの少ししか残っていない。
 エレベーターの中、大学の卒業式で友達に約束したことを思い出していた。
「私がさ、有名な漫画家になってお金持ちになったら、マンションを買うからみんなで一緒に住もうよ。子育ても一緒にすればきっと楽しいよね」
「うわあ、それ最高だね。一湖なら本当にやれそう」
「いっちー、売れても忘れんといてよ。勝手に家とか建てたら承知せんでね!」
「ようし、三十歳になったら連絡すっからね。きっとだよ。きっと待っててよ」
 そう言って東京へ出てきてから、いつの間にか二十年が経っていた。あの頃の一年とは色んな意味で長さも太さも違っていた。大学時代の約束はどれもこれも子どもの指切りげんまんより幼稚で、思い出すと痛くて、そして愛おしかった。約束を交わした仲間たちも一人結婚し二人結婚し、そのうち出産し、家を建て、年賀状に張り付いた会ったこともない子どもの顔だけが増えていった。互いに連絡し合うこともいつの間にか減り、あの頃が夢だったのか今が夢なのか、もう疑うこともしない。でも酔っ払った夜や彼氏と別れたあとなんかには決まって地平線のかなたに置きっぱなしの約束を思い出して貯金通帳を眺めたりした。もうちょっとでみんなで住めるくらいのマンションが買える。今私が連絡したら、何かが変わるだろうか。こういう話、次の回に書くかな? 主人公の過去の回想シーンで伏線として入れとくのはありかもしんない。ふむふむ、悪くない。テーブルのメモ帳に走り書きした。週刊のコミック誌に続いて、今年からは月刊誌の連載まで決まって、怖いくらいに好調だった。朝までアトリエで考えていたネームが脳みそにへばり付いている。日常のどれもこれもネタにしてしまう癖がつき、気がつけばいつも俯瞰で自分や周囲を眺めていた。
 この分ではベッドにもぐりこんだところで眠れないだろう。湯につかったまま構想の続きを思案する。

 眠るのを諦めて、昼から線路沿いのカフェKITUTUKIに出かけると常連客たちが外のベンチに屯していて、私は嬉しくて手を振りながら駆け寄る。
「一湖先生、久しぶりです。今日は、おやすみですか?」
 ウルメが空になったコーヒーカップを口に運びながら甲高い声で喋る。
「もうそろそろ先生はやめてよー。ウルメは? 星川ビールのなんかでっかいプロジェクトやってたじゃん。あれは落ち着いたの?」
「はい、やっと終わったんですよー。ちょっとだけ落ち着いた感じっすねー」
  ウルメは広告代理店から独立して、一昨年デザイン事務所を立ち上げた。まるでKITUTUKIの主のようにいつ来てもここにいたが、最近はだいぶ軌道に乗ってきたらしい、しばらく見かけなかった。クリエーターの社交場ということでKITUTUKIに集う人も少なくないが、私にとってはたまに来てただ笑って帰れる貴重な場所だった。
「ええ! いっちゃんて先生なの? 俺も三年前まで先生やってたからさあ」
 娘のしのちゃんを抱っこした緒方さんが今更そんなこと言うのが、おかしくて
「そうだよー。先生してるんだよ、小学校の」
 と言ってみると、まともに信じて自分の学校の話をしはじめたので、見かねたウルメが漫画家だと話してくれた。デザイナーの緒方さんは柊介と仲が良くて、頼まれて多摩川へ写真撮影をしにいったりしていたっけ。いつも二人を側で見てはいたが、私は、相づちを打つ程度でちゃんと話すことはなかったのだと思った。
「ほらほら。これ見て、一湖さんです」
 誰かが私のインタビュー記事やらブログやらををスマホで見せている。
「じゃーん、ここにも。僕ね、実は毎月楽しみなんですよ」
 エプロン姿の店長がカルチャー誌を持って店から出てきて、お悩み相談室のページを開いた。
「これ一湖ちゃん? うそ、顔が全然違うじゃん!」
 素っ頓狂な声を出したのは緒方さんで、その声に驚いてしのちゃんがグズりだした。緒方さんはキャスケットを後ろに回すと、リュックから流線型のメガネを取り出し、しばし紙面の私と今ここに立つ私を見比べている。
「えー、そんな違う?」
「違う違う。全然違うって」
「その写真は五年、いや、もう八年も前になるのか。老けちゃったかなあ」
 周りの人々は、即座に「そんなことはない」「十分かわいい」と慰めはじめる。緒方さんは、帰国子女なので思ったことをズバッと言う。それに、すごく勘がいい人だから言うことに迷いがない。もちろん悪気だってない。私も柊介も彼のそういうところが好きだった。
「旦那が写真家なんだからさ、ちょちょーっと新しいの撮ってもらえばいいじゃん? ね、柊介ちゃんいい写真撮るんだから。これはね、もう一湖ちゃんじゃないよね」
「紺屋の白袴ってやつでして。また今度撮ってねって言いながらもう八年経っちゃったんだなあ。どこがどういうふうに違います? 目の位置? 太った?」
 一斉にみんなスマホで私の写真を出して、何が違うか検証しはじめた。同じだよ、変わってないよという人だっている。
 電車が湾曲した土手に沿って器用に走ってくると、私達のベンチと柵一つを隔てたすれすれを、通り過ぎていった。店長が勝手に植えたというユーカリと、しのちゃんの髪を同じ方になびかせながら。
「いや、いっちゃん、そういうことじゃないんだ。もう中に入っているものがさ、全部入れ替わってしまって。別のいっちゃんなんだよなあ。とにかくさ、出てる波動ってかそういうのが全然別人なんだよな」
 緒方さんはいたって真面目にそう言うから、へーって感じだ。
「すみません、聞きかじった情報で申し訳ないんですけど、人間は確か体の中の水が二週間で全部入れ替わるんですよね。だからどこで暮らすかでも変わってくるそうですからね。はい」
 じっと聞いていたウルメの彼が喋り出した。
「で、これもどこかで聞いた話で不確かですが、七年で全部の細胞が入れ替わるということなんですよ。だから、そういう意味でももう別の肉体なのかもしれないですよね。はい」
「それって都市伝説でしょう?」
 と店長が顎鬚を触りながら苦笑いしている。
「ほらこれ、十年前の俺の写真。ロスで先生してた頃の。全然違うっしょー!」
 高らかに笑いながら、緒方さんは財布の中の写真を見せてきた。丸メガネをかけた痩せっぽっちの青年は、わずかに面影を残すが言われないと彼だとは気づかなかった。
「ずいぶん、がたい良くなったんですね」
 ウルメがまた空っぽのコーヒーカップを口に運びながら言った。でも緒方さんの言うように、そういうことではなかった。太ったとか、はげたとか、老けたとか、そういう見てくれのことでなく、信じることが変わったとか、魂の色が変わったとか、そういう類のあれだ。
「自分の変化って、なかなか気づかないですよね」
 赤く染まりはじめた空を見ながら適当なことを呟いた。
「え、そう? 毎日鏡見るでしょう? 髪とかしたり、顔洗ったり。そういうときに気づいたりしない?」
「緒方さん若いな。鏡なんて見るの? 私……ちゃんと自分の顔見てないかも」
 顔は見るが、クマがあるとか、弛んだとかそういうことをだ。それを見ていると言っていいのかわからない。パッと自分の顔が思い出せない。今思い出している自分の顔も、もしかしたら昔の顔かもしれない。
 今の私って、どんな顔してたっけ?
「ちゃんと顔見なきゃ。自分の顔さ、見てなよちゃんと。捕まえてないと、自分のこと。簡単に変わっていっちゃうから。知らないうちに知らない自分になってることってあるからさ」
 中肉中背の中年男が、真剣な顔して言う話か? とも思ったが、私は明らかに真に受けていた。また、数十センチ脇を特急電車が通っていく。心臓がズキンズキンと存在を主張しはじめ、みんなの声がぼーっと遠のいていく。流動的な私の体内か。これはなかなか面白いネタかもなあ。考えも、この瞬間も、明日には全部消えていってまた別のことで充満して、眠って、昨日とは別の肉や卵や野菜を食べて、別の情報で神経を尖らせて、そういうものを餌にしてまた漫画を描いて描いて。私はいつからか、中身を見つめることを忘れていたのかもしれない。大学の頃、嫌というほどに対峙していたものを。ここにいるのは、本当に私だろうか。宇宙からきた別の生体なのではないか。もしそうだとしても、自分さえ気づかないのだから世話ない話だ。いや、そもそも私の定義はなんだ。食べ物も水も、どこから来たとも知らぬ不確かなもので満たされた不確かな体で。土を触ることも雨を飲むこともなく、人だらけの砂漠に染みる、明日には乾いて消える答えばかりを探して。
 写真は結婚前オーストリアに行ったとき教会の前で柊介に撮ってもらったものだ。朝焼けが白い屋根と私の顔をオレンジに染めて、恍惚とレンズの向こうの未来を見つめている。「今」の私を表すのに一番ぴったりの写真だと当時二人で話した。でも、今はもう「今」ではない。この時の私は何を考え何を見ていただろうか。思い出せない。まだ読み切りしか書かせてもらえなくて、出版社に原稿を持ち込みしていた頃のものだが、見れば見るほどに私ではない、見覚えのないものに思えてきた。だとしたら、この二つ目の人間は一体誰だろう。懐かしさには程遠い、こっちを睨むこの肉体は一体。
「いやあ、素敵なレディーだと思うよ。君らみたいな夫婦はさ、世界にそうないんだから。柊介がうらやましいもんね」
 一人一人と今生の別れみたいに握手すると、しのちゃんにヘルメットをかぶせて、緒方さんは電動自転車で颯爽と走り去った。夕暮れは少し寒くて、私達は店内に移動すると話題を変え、またコーヒーを飲みはじめた。

 家に帰ると、花瓶の水が空になっていた。こないだまで一杯だったのに。テーブルの上に置かれたネーブルに切り目を入れて食べようとしたが、これを食べる未来と食べない未来では変わってしまうのだろうかと、手を止めた。食器を片付けようと棚を開けると見たことのない小皿がある。柊介が骨董市で買ってきたものだろうか。ふとベランダに目をやると、植えたはずのない真っ赤な花が無数に咲いていた。そこへ、タイダイ色をした鳥が飛んできて、夕闇の中、花をついばみはじめた。私は一体どこにいるのだろう。今まで見てきた世界も、二週間の間に入れ替わってしまったのか。それとも、ちゃんと見ていなかっただけで全て昔からあったものだろうか。
 洗面所へ行き鏡の前でまじまじと自分を見つめる。
「おーい」
 と言ってみる。
「おーい」
 と鏡の中の私も返す。
「君は誰なの」
「君は誰なの」
 きっと眠気のせいだ。ベッドに潜り込み目を閉じると静かにまどろみの中に溶けてゆく。
 豆腐屋のラッパが遠くに聞こえる。どこの街で聞いた音だっけ。あの子達の笑い声も混ざり合って、やけに心地よかった。夢を見ているんだ。きっと長い長い夢。
 ねえ、私達ずっと変わらないでいようね。
 うん、忘れないでいようね。
 きっと、手紙書くからね。
 うん、手紙書くからね。
 ザザーッと風が吹いて、ユーカリの細い枝がしなる。朝もやのなか、古着のタイダイのスカートを押さえながら歩きはじめる若い女。迷いなんてこれっぽっちもなく、摑み取った道を誇らしげに。地平線のずっと向こうから荒野を歩いて来る女性を私は知っている。確かに、その顔に見覚えがあった。

 

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