ちくま新書

発達心理学で気持ちをマネジメントする

怒り、悲しみ、屈辱感、後悔……。強すぎる感情に翻弄されないためにどうすればいいでしょうか。ちくま新書『感情の正体――発達心理学で気持ちをマネジメントする』は、友情や公共心を育み、勉強や仕事の能率を上げる発達心理学の最新研究と、気持ちをリセットする方法を紹介する一冊です。

はじめに

「自分が感情を持っているという感覚がもてない」と、ある女優がテレビで話していました。〝ぺふぺふ病〞という病にかかっているそうです。〝感情に起伏もなくて、これといった悩みもない。仕事はやってるけど、たぎっている感じでもない。やる気が感じられず、生きている感じがしない〞という状態だと言います。
 他方で、感情が走りすぎて、泣きわめいたり、身近にあるものを投げたり蹴りつけたりする人もいます。スカッとしたようでも、しばらくすると一気に奈落の底に落ちたかのような気分になって自己嫌悪に陥るといった、ジェットコースターのような人もいます。
 このような極端な行動に出ないまでも、私たちは日々いろいろな感情に翻弄されています。怒りでなかなか寝つけなかったり、自分を恥ずかしく思ったり、楽しかった日々を思い出してなぜか泣けてきたり。得体のしれない感情というものに左右されていると感じることが、たびたびあるのではないでしょうか。
 どちらかといえば、私たちはポジティブな気持ちよりもネガティブな気持ちに注意が向きやすいところがあるようです。そういえば、私も授業の感想を学生からもらったときに、たとえば100名中95名から「ためになった!」といった好評を得たとしても、残りの5名から「わかりにくかった」とあれば、シュンとしてしまうことがあります。白いキャンバスに、点一つでも黒いインクが落ちると台無しになってしまうように、悪い方向へ考えることが仕組まれているようです。もしそれが正しいエビデンスだとしたら、一体なぜなんでしょう。
 一方で、感情があるからこそ、喜びや幸せを感じることができ、生きている意味を探ることができます。では、幸せな気分に浸ったり、日々ある程度満足したりするためには、どのような生き方をすれば良いのでしょう。具体的に獲得できるスキルや知恵のようなものがあるのでしょうか。得体の知れない感情とどう向き合い、付き合っていけば良いのでしょう。そもそも感情とはなんなのでしょう。どこから湧いてくるのでしょうか。
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 この本の目標は、「感情」というキーワードをもとに、それに操られないための知恵やスキル、支援のあり方を探ることです。これは、感情を俯瞰したり客観視したりする「メタ認知」の力を伸ばすことにつながります。そのために心理学、とりわけ発達心理学という切り口から、有効な最新エビデンスを取り上げました。感情というものの特徴がわかれば、すなわち対応する相手の正体がわかれば、幸せになるつき合い方や問題解決の方法を得られるからです。
 まず第一章では、感情について明らかになっている科学的な知識を紹介します。感情がどうして喚起されるのか、身体を通してどのように感じるのか、理論がわかれば、イメージできます。感情研究の成果から見える化することによって、とらえどころのないその実態に迫りました。
 第二章では、人間の感情はどのように発達するのか、それぞれの発達段階で顕著な特徴を明らかにしました。考える力、いわゆる思考や認知は年齢とともに獲得されるイメージが強いのですが、感情に至ってはそうともいえません。おおらかな子どもも短気な高齢者もいて、年齢とともに発達するというよりはむしろ個人差が大きい気がします。いったい、実際はどうなのでしょう。感情についての実用本はたくさんありますが、感情が発達する際の特徴についてはほとんど言及されていません。そこで、発達心理学の研究にみられる興味深い知見を役立てていただけるよう紹介します。
 感情と道徳の関連性について述べるのが第三章です。怒りや悲しみといった基本的な感情とは別に、感謝、嫉妬、慈悲、罪悪感といった道徳に関わる感情と呼ばれるものがあります。社会生活に適応していくためには、道徳的感情を育むことが必要です。この点について明らかになっていることを紹介します。
 第四章では、子どもたちの様々な問題行動と感情が関連するかどうかについて論考します。子どもの問題の原因の一つに、感情をうまく表出できない、理解できない、マネジメントできないということがあるように思います。感情という切り口から子どもたちへの有効な支援が見えてくるでしょう。ここでは、非行、ひきこもり、いじめ、虐待、そして発達障害についてまとめました。
 第五章では、それまでに述べた、感情とは何か、感情はどのように発達するのか、感情はどう扱われてきたか、問題行動の背景に感情はどう関連しているか、といった観点に基づいて、感情に翻弄されないためにどうすれば良いのか、具体的なアプローチを提示します。現在、様々な立場から、とてもユニークな考え方やトレーニング方法が実践されています。ここでは各理論や実践方法の強みと、具体的な実践例を紹介したいと思います。
 最後に、第六章では、場所アイデンティティを取り上げ、感情に影響を及ぼす環境について考えました。居心地のよい空間、安らげる場所、そしてわくわく感を抱ける環境とはどのようなものなのか具体的に考えました。建築の仕方、居住デザインや工夫について提案しています。さらに、危機予防の視点からどのようなシステムが良いかについて述べました。
 この本で紹介できる研究や実践は、ほんの一部かもしれません。しかし感情について好奇心をもち、様々な心理学の知見を理解することは、感情に翻弄されず、前向きにマネジメントするために必要です。
 私自身、日常生活では相変わらず、様々な感情体験を重ねています。ですが、こうした多くの知見によって、得体のしれない感情に振り回されている感じはなくなっています。むしろ、何かを感じるセンサーのありがたさを知り、感じられること自体の幸せ、感謝の心を持てるようになりました。まだまだ予想外の体験をしてもちろん凹むことはありますが、少しだけこれからの生き方を冷静に見つめられるようになっていると感じます。個人的には、感情の正体のなかに、子どもの頃の遊びや学びの中で味わったわくわく感を育み生涯維持する術を探求したいと思っています。
 この本を手に取った方が、「わくわく」という感情を思い出し、読み終わる頃に、何か行動を起こされることを期待します。