遠い地平、低い視点

【第24回】しかるべき人達

PR誌「ちくま」より橋本治さんの連載を掲載します。

 熊本や大分の地震報道の陰に隠れてしまっているのかもしれませんが、昨年国会で可決されてしまった安全保障関連法の違憲性を問う訴えが、弁護士や元裁判官達を原告として裁判所に出されましたね。私は「ああ、よかった」と思いました。
 安全保障関連法案が国会に提出された時、「戦争法案反対!」という声が高まりました。「戦争の放棄」を言う憲法第九条に反するものだから反対ということでしょうが、世界情勢の変化によって国防を考え直すことは必要でもあろうと、私は思います。
 でも、そうであるならば、「現在の国際情勢はどうなっているのか。それが将来的にはどうなると考えるのか。その将来的な世界情勢の推論を受動的に受け入れるのか。あるいはその情勢にどう関わって危機を回避するのか」という議論が必要ですし、その一方で「我が国の国防力は現在どの程度のものであるのか」という議論ではなくて、事の性質上、内々の検討も必要だと思います。
 憲法第九条に抵触する可能性のある安全保障関連法案を国会に提出するのなら、まず「その法案を提出する必要があるのかどうか」に関する以上のような議論をするべき必要があると思いますし、提出するのなら、まず憲法の規定を改正した上で提出するべきだと思っています。
 これを言う私は、「憲法第九条を変えるべきだ」とも「変える必要はない」とも言っておりません。「それを判断するための材料がないからよく分からない」という、そこら辺に転がっている日本国民の一人なので、憲法第九条に関しては、よく分かりません。ただ「戦争がなくなったらいいな」という高邁な理想や、「やばいんだから、さっさと戦争放棄なんかやめちまえ」というような二択に進む前に、「むずかしいことは分からないけど、安全保障関連法案の審議って、手続き的におかしいんじゃないの?」という疑問は持ちます。
「手続きの中に重大な意味がある」ということを、どうやら人はあまり理解してくれません。そこを素っ飛ばして、「二者択一のどちらかを選べ」という方向に、割合簡単に進んでしまいます。どうやらそうです。でも、「手続きの中に重大な意味がある」と知っていて、これを素っ飛ばして、たやすく二者択一の一方に誘導することに長けた人達はいます。「詐欺師」と呼ばれる人達です。
 手続きの中には、時として人を引っ掛けるような重大な意味があるわけですが、「改憲、イエスかノーか」のような「ともかく結着を早くつけろ」的な議論ばかりに目が行って、多くの人はこのことの重大性に気づいてくれません。だから、安全保障関連法案を国会で審議していた昨年の夏、首相補佐官なる人物が、政府提出の安全保障関連法案に関して「法的安定性なんて関係ない」――「合憲であるか違憲であるかを考える必要はない」ということを、一般には馴染みのない「法的安定性」という言葉を使って言ってしまう。
「違憲か合憲か」ということをまず考えなければいけないという「手続き」を無視してしまえば、法案を提出する行政府はやり放題になってしまうけれど、その「手続きの重要さ」を示す「法的安定性」という言葉に馴染みがないから、簡単にスルーされてしまう。「法的安定性」という重要な意味を持つ言葉が、法律関係者の中でだけ流通して、外部の人間には届かないというのは、悲しいことだけれど、事実ですね。そんな言葉、普通の辞書に載ってない。うっかりすればそうやって、知らない間に「外堀」がどんどんどんどん埋められて行く。「それは危機だ!」と言ったって、それを言う人が「馴染みのないことをネタにしてわけの分からないことを言っている人」とどう違うのかは、おそらくは分からない。「認知度の低さ」というのは、そのようなことを生み出してしまう。
 国会の前に大勢の人が集まって「反対!」の声を上げるのを、意味がないとは思わない。それが映像になって流されれば、「多くの人が反対している」ということだけは見て分かる。でも、分かるのはそのことだけで、もっと多くの人は「これはなんの騒ぎなの?」と思うし、「ある種の人間はああいうことをやるんだよ」と切り捨てられる。そこでなにが起こっているのか、なにがどう問題にされた結果なのかということが分からなければ、そうなってしまっても仕方がない。
 大方の日本人に「法的安定性を無視する」ということの重大性が理解されないのはもうしょうがないとして、だからこそ、なにも分からないバカな国民に代わって「法の番人」であるはずの元裁判官や弁護士には、「違憲でもかまわない」と言ってしまう行政に対して怒ってほしい。なにしろバカな国民は、その内閣の支持率を平気で上げているのだから。


この連載をまとめた『思いつきで世界は進む ――「遠い地平、低い視点」で考えた50のこと』(ちくま新書)を2019年2月7日に刊行致します。

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