ちくま文庫

『歪み真珠』――綺想の結節点

『歪み真珠』 解説

幻想文学の稀有な書き手として、熱烈なファンに支持されている山尾悠子さんの掌編作品集『歪み真珠』。 その世界を、作家であり批評家として無類の読み巧者である諏訪哲史さんが語りつくします。

     

 十五の掌短編をおさめた本書のタイトル「歪み真珠」とは、ひろく知られるとおり「バロック」という美学的名称の原義とされることばだが、本書中におかれた粒ぞろいの作品群にかぎって見るなら、あの厳格な芸術様式上の「バロック」――畸形的なまでに華美で装飾過多の、もしくは複雑にすぎる病的な稠密性をほんらいの特質とした、見仰ぐわれわれを手もなく圧しつぶすような絢爛さ、すなわち、かのバロック的「荘厳」――そうした威風をほこるというよりはむしろ、それをより優美に、たおやかに洗練させた風情であり、細部に瀟洒なロカイユ紋様のふちどりを凝らした、さしずめ王室晩餐用の贅沢な小菓子(プティ・ガトー)然とした、気負いのない、すぐれてノンシャランな拵えで僕たち読者を魅惑する。
 とはいえ、二十世紀後半、一九七〇年代から八〇年代に発表された山尾悠子の伝説的な初期作品群は、なるほど「たをやめ」らしさをあえて抑制した「ますらを」ぶる幾何学的峻厳さに満ち、意匠は豪奢をきわめ、同時に上質な意味における畸形性・綺想性をもただしくたずさえた、まさにバロックの伽藍と呼ぶにふさわしい趣きを呈していた。
 この時代の力作を手厚くまとめた決定版的大著『山尾悠子作品集成』(国書刊行会・二〇〇〇年)から、わけても傑作と銘打つべき作品をいくつか、僭越ながら僕個人の独断と偏見だけで選び、さらに、大きく二つの領域にカテゴライズすればこのようになる。

  Ⅰ 「夢の棲む街」「童話・支那風小夜曲集」
  Ⅱ 「遠近法」「黒金(こっきん)」「傳説(でんせつ)」

 いうまでもなく、この二領域の作品それぞれが、相互に範疇を侵し合い、境界を跳び越えて、常に自在なクロスオーバーに身をまかせている。
 このうち、Ⅰの領域の作品群には、作者らしい個性的なイマジネーションと寓話的嗜好が縦横に展開、すでに独壇場の感があり、いずれの作品にも余人のなまなかな批評を宥さぬ美的なこだわりがある。初期からの山尾ファンのうちでも特にSFやファンタジー、いわば物語性の高い小説を好む読者の推挙する作品の多くがおそらくはここにふくまれる。これらの作品群は概して筆遣いが軽やかで、ときに地の文中に会話体が織り込まれ、語りにスピード感があり、文体的自由度も高い。本書『歪み真珠』において、この領域Ⅰにふくまれる作品は、私見によれば「マスクとベルガマスク」、「アンヌンツィアツィオーネ」、そして「夜の宮殿の観光、女王との謁見つき」などである。
「マスクとベルガマスク」では、両性俱有的な世にも美しい双生児のふたりが舞台のあとに相抱擁し、〈白タイツの二対の脚は軽やかに五線譜のみちを辿って空白に出〉て、〈「ここはどこ。何も見えない」/「古い音楽のなか。僕らはその登場人物だから」〉という詩のような、幻想的な会話を交わす。
「夜の宮殿の観光、女王との謁見つき」で誰の眼にも印象的な綺想と映るのは、女王の口から洩れる、〈わたくしはね、大理石の糞をするのよ〉という圧倒的な科白である。「大理石の糞」という清廉なイマージュ、この凝縮された詩的な語感だけで、幻想小説がもう一編生まれても不思議ではない。あまりにも気高い、すぐれたエスプリがここにある。「アンヌンツィアツィオーネ」。受胎告知の天使が空を飛んでゆくのを眼にした夜、少女が寝室で〈編んだ髪をほどくとそこからは必ず数片の白い羽毛がこぼれ出した〉。この箇所を読んだ刹那、僕はただちに山尾悠子のデビュー作「夢の棲む街」の、あの美しい数行を想起した。〈白い羽毛は夜の街路と屋根屋根に降りつみ、街全体を養鶏場の床のように見せ、夜明けまでに街は羽毛蒲団を解(ほど)いた後のようになる〉。幾十年の星霜を数えても厳と変わらぬ山尾悠子の美的嗜好の一端が、期せずしてこうした細部にかいまみられる。
 領域Ⅱ、として挙げた作品群も、多くはⅠと様式的もしくは文体的な共通点が多く、ほんとうをいえばそれのみでは双方を厳密には分かちがたい。ただ、このⅡに分類される小説の生み出され方には、きわめて「禁欲的」な作家的態度が秘められ、ごく個人的に、僕自身が創作をはじめた昔からずっと持ちつづけてきた方法意識と非常に近いという勝手な実感があり、この点ゆめゆめ忽がせにできぬところがある。領域Ⅱとは、ユング流の性差的隠喩をもちいるなら、目元の涼やかな、横顔の凜々しい、美しい青年の相貌をした小説群――硬質な文体の作品群であり、仮にⅠをアンドロギュノスの天使たる山尾悠子の少女性・女性性の一面であるとすれば、Ⅱとは少年性・男性性のそれといえるかもしれない。
 本書中でこのⅡの領域に入る作品は、「美神の通過」、「向日性について」、「火の発見」などだ。また、これはⅠの要素も併せ持つ条件で、どこかガルシア= マルケスのマジック・リアリズム短編をおもわせる綺想譚「娼婦たち、人魚でいっぱいの海」も数えられる。
 逆説めいた言い方をすれば、Ⅱの小説群には「本文より前に<挿画>がある」。永劫に静止しつづける腐蝕銅版の挿画、または装画。幻視――天啓としてのヴィジョン、静止した神話、いずれなんらかの絵画的な対象が確乎として先にあり、その画の世界を、細密かつ詩的な描写力で言語化してゆく。多くの山尾作品でこうした秘儀が人知れず執りおこなわれ、まるで石に彫りつける文字のような、あの独特な錬金術的文体がかたちづくられる。
 如実な例として本書所収の「美神の通過」は、英国の画家バーン・ジョーンズの同題の絵画作品からイメージしたものであることが作品末尾に書き添えられているし、山尾悠子のこうした視覚的な霊感はかつて傑作「遠近法」のインスピレーションを、十五世紀にマンテーニャが描いたドゥカーレ宮殿のフレスコ天井画の名高いだまし絵(トロンプ・ルイユ)、すなわち「まるで丸天井ごしに露天の空や雲が筒抜けに見える円筒型の窓際から天使たちが下界を覗き込んでいるように見える画」から得た経緯とも共通する。「遠近法」が一見「バベルの図書館」と通底するように読めるのはたんに、ボルヘス自身も昔この有名な画を見たからというにすぎまい。「遠近法」の味わいは別物である。また、旧作「黒金」も作家アラン・ロブ= グリエの短編「秘密の部屋」経由での画家ギュスターヴ・モローの絵画世界をモチーフにしたものであり、ことほど左様、領域Ⅱの小説世界では原則すべての時間は絵画のように「静止」している。かつて詩人西脇順三郎が、西欧の彫像の素朴な静寂のさまを〈石に刻まれた眼は永遠に開く〉(「眼」)と書き、物語の時間変遷よりも、彫刻的に凝固した象徴世界を愛でたように、僕なども、昔から絵画的な徹底した外面描写小説を非常に好み、二十代にはそれらの実践であるフランスのアンチ・ロマンの小説群を多く渉猟した。たんに嗜好の問題だが、僕はビュトールやサロートやデュラス以上に、ロブ= グリエとクロード・シモンを別格に好む。まして彼らの翻訳が出されたと同時代の山尾悠子がそれらの影響を受けぬはずはない。「黒金」のみならず、連作『ラピスラズリ』の「枠/額」構造を成す劈頭編「銅版」における深夜の画廊の三枚の絵、ここから内側へ小説世界を開くスタイリッシュな多重性も、どこかクロード・シモンの香りをかんじさせるものがある。
 本書中「火の発見」は、「遠近法」「遠近法・補遺」など山尾自身によって「腸詰宇宙」と称された円筒型架空世界の連作に加わるもので、出自からもむろんⅡに位置づけられるが、重要なのは、この掌編執筆で山尾悠子の主題にまさに「火」が発見され、それが近年の力作、先年泉鏡花文学賞も受賞した『飛ぶ孔雀』という「火」にまつわる作品へ結実することである。かつてガストン・バシュラールは四大の一つとしての「火」のイマージュについて、〈焰は上に向って流れる砂時計である。崩れ落ちる砂よりも一層軽く、あたかも時自身がつねになにか為すべきことをもってでもいるかのように、焰はその形態を築きあげている〉と書いたが(『蠟燭の焔』渋澤孝輔訳)、同様に山尾の描く「火」も、手触りのある「物質的想像力」の賜物に相違あるまい。
 最後に僕が声高に激賞しておきたい本書の掌編が「向日性について」である。僕の読み違いでなければ、この小品こそは、山尾悠子の歴代の傑作群中に置いても一歩も引けをとらぬ最高峰の作品である。本書では「娼婦たち、人魚でいっぱいの海」も高度な文体と綺想を有しているが、「向日性について」に描かれた架空世界の詩的完成度の高さは瞠目に値する。〈玩具のようなロープウェイのゴンドラが山肌を循環するその都市(まち)〉、〈山手で撒いたきららかな水がどこまでも伝い落ちてゆく果てには港祭りの紙吹雪の絶え間がなかった〉など不思議な郷愁さえただよわせる描写や、日をうける「実体」とは別に、大地に二次元に横たわる「影たち」の奇妙な存在感――山尾悠子の真骨頂というべきである。
 掌編集とは言い条、本書は、前世紀に書かれた作品群の粋と、今世紀、これ以降に書かれる新たな山尾作品とをつなぐきわめて重要なミッシング・リンクであり、美しく引き絞られた鯨骨のコルセットのくびれ部、否、硝子の砂時計のしなやかな結節点なのである。
 

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