高橋 久美子

第10回
5000ドンと5000円

エッセイ集『いっぴき』(ちくま文庫)も絶好調、また絵本翻訳でも注目を集める作家・作詞家の高橋久美子さんの連載コーナー。彼女にしか紡ぐことのできない言葉たちで、日々の生活を鮮やかにエッセイや小説に仕立てます。〈作家・高橋久美子〉の新しいスタートを告げる連載は毎月第4水曜日の更新になります。

 

 飛行機のタラップを一段降りるごとに、まるで真夏の海に潜っていくような湿気が押し寄せてきた。さくらは母のリュックを押して先に到着ロビーに向かうバスに乗せた。妹の星子のバックパックについた鈴の音が後ろで聞こえる。
「つり革ちゃんと持って。けっこう急カーブがくるから」
 隣のおじさんの前のつり革を拝借して母につかませると、バスは飛行機の間をすり抜けるように走り出した。
「スターウォーズみたいだね」
 バスに合わせて振り子人形みたいに揺れながら母は飛行場を目に収めている。
 ハノイは数年前に星子と訪れたが、ホーチミンは初めてだった。三人ともリュックサック一つなので極力荷物を減らしたかったけど、三月の日本から流石にTシャツ一丁で来ることはできず、機内のトイレで脱いだヒートテックが鞄の中に息を潜めていた。
「お母さん、パスポートまた見せるからね」
「え? まだ見せるの?」
 と、すっとぼけている母は初の海外、自作の腹巻きに入れたパスポートを確かめている。こりゃあ子どもと一緒の旅に近いぞと私は覚悟を決めたのだった。

 入国審査をクリアして気が楽になったのか母はやっと長袖を脱いで、花柄のTシャツになった。肩掛けカバンから巾着を取り出すと「飴いる?」とのど飴を渡すのが彼女の唯一の役目だ。星子は自分の背丈ほどあるバックパックを背負ったまま地図を眺めている。
「ねえさっちゃん、少し両替しとこう。今日のホテル多分カード使えない」
 空港のエントランスには、ずらりと両替屋が並び、おいでおいでと計算機を持って手招きする。1円=206VND(ベトナムドン)。こちらは207VND。お、208のところもある。ここが一番レートがいいみたいだ。
「ちょっとちょっと、さっちゃん、あそこ210だってよ」
 星子が鈴を鳴らしながら走ってきた。
「えー、210? 相場よりかなりいいじゃん。いくら替える? 私は5000円でいっかな」
「じゃあ、私は2万円」
 星子は予めみんなから集めたホテル代の管理人なのだ。
「じゃあ、私も1万円!」
 母も洋々と鞄の隠しポケットから諭吉を取り出し、三人まとめて3万5000円を両替することになった。いつもなら空港ではせいぜい1万円だけど、母を連れている分いざという時現金があった方が困らないだろう。ばっちり化粧した小柄なおばさんが計算機をトントンと叩き札束を、ワーン、ツー、スリーと並べていく。露店ではまずカードが使えないし、大きなお札を出すとお釣りがなかったりするので、両替のときに小さい紙幣に変えてもらうのもポイントだ。5000ドン札で約25円、コインはなく全部お札だから、どんだけの金持ちかと思うくらいお金の厚みがすさまじい。確かめていると私達の後ろに大行列ができてしまったので、札束を持って立ち去ろうとすると星子が、
「レセプトプリーズ」
 と、ちゃんとレシートをもらっている。流石、用心深い妹よ。

 正面ゲートを出ると、いよいよベトナムの熱気が私達を迎える。ついでにタクシーやホステルの客引きの群れがプラカードを持って待ち構えている。うわあ、これこれ、面倒くさいけど懐かしい。タクシーの運転手さんを振り切って、次にやってくる、黄色い観光客用バスの車掌さんを振り切って、空港のはじっこに止められたオンボロの緑のバスに乗り込む。「5000VND」と窓に書かれていて、見渡したところ地元の人しか乗っていないようだ。バックパッカーの私と妹の旅はいつも地元の足である路線バスから始まる。
「ほら、あっちの黄色い方がきれいだよ?」
 と母が後ろのバスを指さして言う。
「あれはね、2万ドン。観光客用のやつね」
「2万円!? 高いねえ」
「いやいや、100円くらい。こっちのは25円」
「25円!? 途中で降ろされるんじゃない?」
 このボケと突っ込みがあと一週間続くのか。バスは乗客を満員にしたところで、半ドアのまま走り出した。パッパッパー、パパー。乱暴にクラクションを鳴らして高層ビルや寺院の前を走り抜ける。天井から灰色の扇風機が回り、ぼわんと、ときどき生ぬるい風が髪を揺らす。クーラーはかかっているのかいないのか。まあ効きすぎているより、私にはこれくらいぬるいのがちょうどいい。
「へー、ベトナムって都会」
 窓の外を眺めながら母は驚いている。
 パッパッパー。パッパー。なるほど方向指示器をつけたら、継続的にクラクションが鳴るシステムらしい。これはベトナム流の挨拶なんだなあ。車掌さんが、ドアから半身を出して、横をすれ違うバイクの群れに、常に何かを叫んでいる。信号が殆どない代わりに、こうして互いに交通整理をするのだろう。
 途中、どういうわけかバスはコーヒースタンドに止まって車掌さんが出ていった。カウンターの女の子とじゃれあったかと思うとアイスコーヒーを二つ持って帰ってきて一つを運転手に渡した。日本ではありえない光景だけど、こういうのんびり具合が私がベトナムを好きな理由かもしれない。
「ねえ、さっちゃん、ベンタインバスターミナルってまだかなあ。もう結構走ってるよねえ」
 心配性の星子がキョロキョロし始めた。
「まあバスの運転手さんに言ってるし教えてくれるんじゃない?」
 大量の付箋を貼った『地球の歩き方』に星子が目を凝らしていると、後ろの花柄のマスクをした女性が「どこで降りるの?」と声をかけてくれた。地図を見ながら何やら星子と話をしている。女性は英語がわからないらしく、こちらもコムン(ありがとう)くらいしかベトナム語はわからないのだが、不思議と意思の疎通がとれるのだった。日本語同士でだって分かりあえないことはいっぱいあるが、助けてあげようという気がある人とは、言語がマッチしなくとも会話できることをこれまでの旅でも経験した。お腹を壊すことはあっても、騙されたりとか、人に泣かされたことはほぼない。人々の好奇心や優しさが何度も私達を助けてくれた。
 バスターミナルらしきところで乗客も車掌さんも「ここだぞ」と叫んだ。コムン、コムン、ありがとう、と三人はお辞儀してバスを降りる。一歩でも動いたらバイクと車に轢き殺されそうな道路の中洲で、ひとしきり狼狽えて、母の手を引っ張りながら妹の鈴の音の方へついていく。
 到着したホテル……というか、一間ほどの間口から薄暗い階段を登って登って四階まで行ったところが私達の部屋だった。案の定エレベーターなし、トイレとシャワー一緒である。
「いやあ、お母さん、これはそんじょそこらのツアー会社では味わえないバックパッカー旅だよ」
 と言い訳しつつも、
「ちょっと星子、お母さんもいるのに、なんでちゃんとしたホテルにしなかったの?」
 と小声でケチをつける。
「はあ? だってべッドが三つある部屋なんてほぼなかったし。ダブルベッドは嫌だもん。いいじゃんいつも通りの旅で」
 母はべッドに寝そべりながら、
「お母さん、この部屋気に入ったよ。だって壁にも天井にもこんなかわいい絵が描いてあって、ホテルの人も優しいし。大体ね、目をつむったらどこだって同じよ」
 と修学旅行生のようにはしゃぐので星子と私は顔を見合わせて笑った。

 二時間ほど時差があるから今は丁度夕方の五時くらいか。お腹が減った。一番バイクがひどい時間帯だが外へフォーでも食べに行こうと、両替したお金をベッドの上に何の気なしに並べた。お札を一、二、三、四と数える。あれ? 足りない。おかしいな。
「ねえ、星子の方に余分に入ってる? あんたのも数えてみて」
「いち、にい、さん、し……あれ、足りないかも。お母さんの貸して」
「いち、にい、さん、し……やっぱ、これも足りない」
 スーッと足元から寒くなる感じがした。
「なになに、あんたたち番町皿屋敷みたいに。一枚たりないーって?」
「いや、一枚どころか、相当足りないよ」
「でも両替屋のおばさんが数えたときはあったよね?」
「確かに。細かくしてもらうときに抜かれたとか? 両替商ならまだしも銀行員がそんなことしたらやばくない?」
「まあ、日本だったらね」
 700万ドン以上なければいけないところが600万ドンしかない。日本円で約5000円足りないことになる。
「悔しい。悔しすぎる、今からもう一回空港に行ってくる」
 星子の顔つきが変わった。小さい頃から星子は負けず嫌いで、理不尽なことが許せない性格だった。目には涙が浮かんで口を尖らせて、ああ久々にこの顔を見たなと思った。
「いやいや、もう銀行閉まってるでしょ。5000円くらい私が出すよ」
「そういう問題じゃない。なんか負けた気がする。あのおばさんは笑って今頃おいしい物食べてるよ。だってバスが25円なんだから、5000円ってどんな大金よ。私ベトナムのこと嫌いになってしまう」
「まあ、みんなこうやってポケットマネー稼いでんじゃない?」
 母が一緒でなければそりゃあ私だって空港に行って詰め寄るよ。でも、初めて海外にやってきた母の思い出をこんなつまらない事で曇らせたくないじゃないか。
「そうそう、5000円くらいお母さん払うから星ちゃん元気だして。美味しいもの食べに行こう」
 星子の心を落ちつかせたり、近所の銀行で相談に乗ってもらったりしているうちに、結局外へ出る頃には夕方六時半を過ぎ、食堂はどこも閉まってしまった。本当においしいのは一杯二百円くらいの、おばちゃんがやってる小さな食堂のフォーやチャーやお粥だ。探してはみたが、開いているのは煌々と明かりのついた観光客が集まったレストランだけだ。仕方なく不味くも美味くもないフォーを食べて私達はホテルに戻った。
何か歯車が狂い始めているなと思った。やっぱりこんなんじゃ楽しくない。お金が返ってこなかったとしても、星子の言う通り、やりきるべきなんだ。

 深夜、母が寝たのを見計らって、私達は計画を練った。私達の旅をすべきなんだ。星子のカバンの中から再度レシートを取り出し検証する。
 35000YEN両替したから〈35000円×210=735万ドン〉になるはずだ。
 やはり100万ドン少々が足りないことになる。「7250000」と書かれたレシートは端数は合わないにしろ、これではレシートを持っていったところでバス代しか取り返せない。
 だが、待てよ、さっきから気になっていたが、数字頭の癖のある手書き文字がどうも「7」にしては書き順がおかしいのだ。ベトナム流だろうか。ふと、フロントで書いてもらったワイファイの暗証番号を見ると、7には数字の真ん中に斜めに一本の線が入っていることに気づく。近くの銀行で書いてもらったレートも7には真ん中に斜めの棒が引かれてあるではないか。7だとばかり思いこんでいたが、このレシートに書かれている頭文字はどうやら「6」だ。穴が小さくてとても6に思えなかったが、6だと思って眺めると完璧なる6だった。
 星子にレシートを要求されたおばさんは焦って、騙して渡した金額を書いてしまったらしい。
「おばさん痛恨のミスしたね。ここに735万ドンって書けば完全犯罪だったのにね。ほら、しかも自分のサインもしてるし」
「今まで、空港に戻ってくる観光客なんていなかったんだろうね。私らをなめんなよ」
 星子がレシートを睨んで静かに狼煙を上げた。普段大人しい子ほど怒らせたらまずいことを私はよく知っている。スマホでレシートに書かれた銀行の名前を調べると、どうやらかなり大きい銀行らしく日本語対応の電話番号もある。よし全ては明日決行だ。

 翌朝、宿のおばさんに何が起こったかを伝えるのに苦戦したが、ポケットにお金をねじ込むジェスチャーをすると、「なるほどねー」と掃除のおばさんと顔を見合わせた。頼んで銀行に電話してもらうと、日本語の喋れる人が対応してくれたが、驚いたことに空港にうちの銀行は入ってない、私達は関係ないと言い張る。そして、そのお金を取り戻したければ空港へ行くべきだと。よし、じゃあ私達は5000ドンのバスでまた空港へ行ってやろうじゃねえか。
 母に事情を説明すると、
「なんか面白そうなことになってきたね」
 と笑った。そうだ私達はこの人から生まれてきたんだった。
「じゃあ、戻ってくるまで部屋でヨガでもしててね」
 私達はまたベンタインバスターミナルへ走り、昨日来た道をオンボロバスに乗って空港へ向かう。空は快晴、プップップー、ファンファーンと聞き慣れたクラクションをBGMにして。九時を過ぎているというのに通勤ラッシュらしくなかなか進まない。けれど、完全に止まることはなく、ぞろぞろと進み続けるのは逆に信号がないからかと思った。信号に頼らず、各々が気をつけるので案外、事故にも遭遇しなかった。
 空港に到着し、昨日出たゲートへいくも、当然ながら外からは中には入れないので、門番をしている警官に事情を説明することにした。ベージュ色の制服と帽子をかぶった三人の警官が、のんべんだらりと朝を楽しんでいるご様子だ。私達が近づいて、昨日のことを説明すると「へー、よくわからないけど入っていいよー」と簡単にゲートを通してくれた。重しになるかなと思い「できればあなたもついてきてほしい」とお願いすると、「なんか面白そうじゃん」と若い一人がついてきてくれる。
 昨日の両替屋に、あのおばさんはいなかった。いやむしろいなくて私はほっとしていた。客引きする若い男性に、事情を説明しレシートを見せると数秒緊迫した空気が流れ、しばらくして黄色のアオザイを着た綺麗な上司を連れてきた。やはり7ではなく6だったのだ。レシートのサインを見て、おばさんに電話し始めたが、電話にでない。
「それで、あなたたち今日どこのホテルにいるの? 返金してもいいけど嘘ついてないか今夜電話で確かめるけどいい?」
 なんと強気な。さらに強気の星子は望むところだとホテルの名刺を出し連絡先を教えた。
「一体どういう計算したらこの金額になるっていうのよ? しかもレートが210なんてありえないわよ。ほら、うちのレート206よ」
 と、いつもはわざと見えないようにしているレート表を私達に見せた。星子が負けじと「昨日、おばさんは私に210って言ったんだよ」と計算機を取って説明している。女はもう一人の女性従業員としばし話し合っていたが、携帯でレシートの写真を取ると、引き出しの中から札束を取り出し差額分の100万ドン余りをカウンターに並べた。私達は今度は入念に数えて星子のポーチにしまった。アオザイの女性は帰り際、何故か小声でコムンと言った。ごめんとはどうしても言えなかったらしい。
 やったね、取り返したね! 後ろで見ていた警官とハイタッチして私達はまた緑のオンボロバスに乗り母の待つホテルに帰った。
「取り返した!」
「うわー、あんたたちやるねえ。もし二人が帰ってこなかったら、日本大使館に電話してもらおうと思ってたのよ」
 とケラケラ笑っている。
「ねえ、でもあのおばさんクビになるんじゃないかな。家がすごく貧しいとかだったらどうする? 可愛そうだったかな」
 と私が言うと、
「いやいや、これくらいじゃクビにならないでしょう」
 けろっとして母は言った。
「え、これくらい?」
「意外とみんなやってんじゃない? 日本だって昔はあったでしょうよ。そんなものよ、そんなもの。さあ昨日閉まってた食堂にいこう。取り返したお金でいっぱい食べるぞー」
 とベッドから飛び降りた。

 

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