高橋 久美子

第11回
蟻と少年

エッセイ集『いっぴき』(ちくま文庫)も絶好調、また絵本翻訳でも注目を集める作家・作詞家の高橋久美子さんの連載コーナー。彼女にしか紡ぐことのできない言葉たちで、日々の生活を鮮やかにエッセイや小説に仕立てます。〈作家・高橋久美子〉の新しいスタートを告げる連載は毎月第4水曜日の更新になります。


 電車の真ん中にアポロが一粒だけ落ちていた。甚太はよく焼けた指でそっと拾うと、制服のポケットのマッチ箱に入れた。スーツのおじさんやお姉さんたちの流れに逆らうように学校へ向かう。「おはよう」って言うと、みんなも「おはよう」って言ってくれる。世の中は別に悪い人ばっかじゃないんだと信じたい。校門の桜の木は山みたいに青く茂って、そろそろ女郎蜘蛛が巣を張るころだ。
「じーんたー」
 鉄ちゃんが教室の窓から手を振っている。あいつ、そんな上手じゃないのにこの春サッカークラブに入ったから、最近朝練らしい。四年生になって、塾とかそろばんとかクラブチームとか、やけにみんな忙しそうだ。
「ねねね、甚太、お前もやっぱサッカーやった方がいいと思うぜ。今度さユースの選手がやってきて教えてくれることになってんだ」
 鉄ちゃんはサッカー用の分厚い靴下のままシューズを履いていて、足元だけやたら逞しく見える。僕はあんまり興味ないんだと言った。噓なのかもしれないけど、今はそう言うしかない気がする。

 帰り道、周りに気付かれないようにそっと家の方角と一本はずれた小道を入っていく。高架下に沿って歩くと、ビルに囲まれるように古ぼけた小さな社があり、その隣には「道祖神」と書かれた大きな石も立っている。グオングオンと頭の上で自動車が往来し、太陽がかげって急に涼しくなった。肩から下げた水筒の残りひと口を飲み干す。風が、順番こに街路樹を揺らし、ついでに空も揺らす。ポケットの中のマッチ箱を取り出し、カラカラと鳴らしてみる。
「アポロあります。それに、金平糖とパンくずも少しだけ」
 甚太は恐る恐る社に向かってしゃべる。風がザザザーと唸って、隣の大きくも小さくもないクスノキから出た若葉を通り過ぎた。
「開いてますどうぞ」
 社から声がしたかと思うと、アスファルトの地面にマンホールと同じくらいの木の扉ができた。ドアノブを引き上げるといつものように扉は簡単に開いた。甚太は左右をキョロキョロと確認して、地面の下へと続く階段を降りていった。
「アッポーロ、アッポーロ、アッポーロ、アッポーロ!」
 みんなが手を叩きながら、よってくる。甚太はマッチ箱からもったいぶってアポロを取り出し、木の葉の上に置いた。
「うむ、これは上玉。富士山の崇高たる円錐、見事じゃ」
 長老の蟻はそう言うと、念仏を唱えはじめた。するとみるみるうちに三角の山が大きくなり砂場の山くらいの大きさになった。子蟻たちが、
「ね、食べていい? 食べていい?」
 わさわさと集まってきて、待ちきれない様子で長老蟻におねだりし始める。
「よしよし、よかろう」
「甚太さん、ありがと、ありがと」
 口々に礼を言うと、順番にチョコレートの山を小石でけずって小脇に抱え、方々に散らばると夢中で食べ始めた。甚太はみんなを踏まないように注意しながら、石の椅子に腰掛けた。金平糖は子どもたちに見られないように貯蔵庫に入れておいて、パンくずは青年会の方へ寄付することにした。
「甚太さん、いつもすみませんね、やあ、この辺り、どこもかしこもアスファルトになりましてね、危なくてここんとこなかなか外へ出らんなくてねえ。こんな新鮮なのは久々でさぁ」
 青年会のリーダーがパンをつまみ食いしながら言った。蟻たちの声は、ひんやりと冷たい土壁にぶつかって響いて、まるで日曜の教会の中にいるみたいだ。
「ささ、どうぞどうぞ」
 木の器に入れられた水が運ばれる。ほのかに甘いその水は、地下水に木の根っこの樹液を混ぜたものでこれがまた癖になる美味しさなのだった。甚太は時々、ここで何をするでもなく蟻たちの踊りや歌を楽しんで帰っていた。それから青年会の会合に監査役として入るときもあって、議題はもっぱら後継者不足についてと、働き方改革という二点だった。働き蟻達がストを起こして冬を越せない集落が出てきているというのが一番大変な問題らしかった。こうしてアポロを持ってきてくれる人間の子どもも減ってしまい、今はついに甚太だけになったと嘆いた。
「それで、あっしらの話ばかりでかたじけないですからね、甚太さんは何か悩んでいることや悔いていることはございませんかね」
「悔いていること?」
「そうです。長年生きてりゃね、ああ、やっちまったなということの一つや二つ出てくるでしょう。だってもう十年も生きてらっしゃる。そりゃもう長老よりも年上なわけですからね」
 青年会長はおかわりの水を持ってこさせながら、ペラペラと喋った。甚太は悔いていることについて考えた。サッカーチームに入れなかったのは、家にお金と暇がないからだ。スパイクやユニフォーム、遠征費やお弁当代、一人で働いている母さんに言えるはずもなくて、監督からもらったプリントはすぐに捨てた。でも別に悔いてない。そこまでやりたかったかと考えると、そこまでとは思わないから。悔いていること、悔いていること……。そしてそっと口を開いた。
「おばあちゃんが施設にいっちゃったんだ」
「ほほほう。施設といいますとあれですか、老人の介護かなにか、そういった類の」
「あ、うん。さこうじゅ、というとこなんだ」
「さこうじゅ?」
「そう。サービス高齢者向け住宅の略なんだってさ。お年寄りがみんなで住んでいるところだよ」
「そりゃまた、かみそうな名前ですね」
「おばあちゃん、足を悪くしておじさんの家で暮らしていたんだけれど、おじさんも忙しいからって、それで、さこうじゅに入ったんだよ」
「ほほほう、でもそれは何でしょ、本人も望んで行ったんでしょう。迷惑かけちゃいかんとかね。こっちでも、最近そんな風ですからわかりますよ。幸せってのは案外飛び込んでみたとこでも見つかるもんですぜ。ですから何も甚太さんが悔やむことないんじゃないですか」
「いや、そのことじゃなくて、おばあちゃんが大切に育てていた盆栽や、苔や、高山植物があってね、僕がベランダで、育てるってもらってきたんだ。頼むよって、手入れの仕方も教わって。でも枯らしちゃったんだ」
「ありゃま」
「その植物、僕のおじいちゃんの形見なんだって。遊びにいくとおばあちゃんいつも大事に手入れしてた。最初は毎日お水あげてたんだよ。でもしばらく雨が続いて、止んでからも三日間忘れてしまって。気づいたときには茶色くなってた。たった三日でだよ。絶対に元気に育てるよって約束したのに、僕。枯らしてしまった。」
「ははあ、高山植物は育てるのが難しいですからね。苔だってそうです、初心者には無理ですよ。まあおばあ様に言わなきゃわからんことでしょうからな。でも、甚太さんはお優しい方ですから、そんなに心痛めてらっしゃるなら、あっちの村の青年団に言っておきやすよ。栄養なんかを適度にやるようってね。なーに時期によくなると思います」
「本当? ありがとう!」
「多分ダンゴムシ軍団の仕業だと思うんですよね。あいつらは苔大好きですから、すーぐ根っこを食い荒らします。地中環境のことなんざあ、ちっとも考えてねえ。虫学会にも全然出てこない暴走集団ですから、お気をつけなすった方がいいでしょうな」
「へえ、ダンゴムシが。わかった気をつけて見てみるよ。じゃあ、そろそろ行かなきゃ」
 帰り支度をしていると長老がやってきて言った。
「植物様ってのは我々よりはるかに神々に近い。心を読む神通力をお持ちなのじゃ。だからな、そう簡単に別の場所に宿ってくれるものではないのだ。まあ、じっくりおやんなさい。大切なのは心じゃよ、心」
「はい、わかりました」
 甚太は、眠った子どもたちを起こさないようにそっと階段を登り、木の扉を開けると、きょろきょろと周りを見渡して、地上へと帰った。帰り道のずーっと果てに太陽が沈み始めている。赤く染まったビルの影が重なり合ってその影をケンケンパと飛び越える度に、ポケットの中で空になったマッチ箱が跳ねた。

 アパートの鍵を開けて部屋に入る。ベランダの洗濯をとりこんで一つずつ畳んでいく。ラジオをつけてテーブルの上のハッピーターンを食べながら、母さんの服や、弟の靴下を丸める。太陽を吸い込んだ肌着は蟻の世界にはない香ばしい晴れやかな匂いがする。龍助の服はまだほんのり赤ちゃんのミルクの匂いがして、弟の成長が嬉しいような寂しいような気がした。水曜だから龍助はまだ児童館に行ってて帰ってきてないみたいだ。制服を脱いで椅子にかけると、冷蔵庫の人参とキャベツと豚肉を刻んでざっと炒める。将来は料理をする人になりたいなと思っている。去年までは回転寿司で働きたいと思っていたけど、今は寿司以外の物を作るのも魅力的だと思う。
 大皿に盛り付けてテーブルに置くと、思い出して、一目散にこども部屋の小さなベランダへ盆栽を見に行った。二段になった鉢置き場の隅っこでやっぱり苔は枯れたままだし、名前のよくわからない花も今年は芽を出していなかった。茶色くなった苔の頭を引っ張って持ち上げると、あ、ダンゴムシ軍団だ。手の上にダンゴムシをひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ……いるいる。とんでもない数だ。そいつらを二階から下の駐車場にばらまいてやった。下で元気に生きろよ。それからジョウロに水を入れてたっぷりとやる。たった三日で枯れてしまうなんて。いや、でも三日間龍助にご飯を食べさせなかったらと考えるとゾッとする。おばあちゃんは、おじいちゃんが亡くなってからの二十年間、一時もおじいちゃんのことを忘れずにいたから枯らさなかったんだ。
 これだけダンゴムシがいたってことはやっぱり根が腐ってしまっているのかな。そうだ。台所から砂糖を一つまみもってきて鉢の脇に小山を作ってみた。これでコンクリートの上でも蟻たちがやってきてくれるかもしれない。
おばあちゃん、一人で寂しくないだろうか。ハッピーターンと野菜炒めを交互に食べながら考える。自分がクラスのみんなと暮らしていると考えたら、それはそれで楽しいかもしれないな。だけど林間学校の間だけじゃなく毎日だ。四六時中うるさいやつもいるし気が休まらないだろう。
 龍助も母さんもいない世界を考える。ガランとした部屋の中は慣れてしまえば平気かもしれない。だけど洗濯物や赤いスリッパやドラえもんのふりかけ瓶を見てしまうと、胸がぎゅっとする。寂しさっていうのは思い出や気配がもってくるものかもしれないと思った。それは案外嫌なものではなかった。でも、これがずっと続くならやっぱり耐えられない。

 廊下が騒がしくなって「ただいまー」と玄関のドアが開いた。
「ごめんごめん、先生と立ち話しちゃって遅くなっちゃったー」
 母さんと龍助がスーパーの袋をかかえて帰ってきた。
「ほら、これおばあちゃんから手紙きてたよ。甚太宛にだよ」
 白い封筒には花の切手と白いウサギの切手が貼られている。
「あらまあ、もう野菜炒めできてるのですねシェフ。助かるー。ご飯はまだあったもんね。夕飯にしましょう」
 母さんは冷蔵庫から取り出した、味噌汁の鍋を火をかける。
「お腹すいたよーう」
 龍助が野菜炒めの肉だけ取って食べている。
 隣の部屋でこっそりと頑丈に糊付けされた白い封筒を開けると、おばあちゃんの部屋の懐かしい匂いがした。
 

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