ぼくはこんな音楽を聴いて育った・東京編

第6話  四畳半の一軒家で「僕らの音楽はこれだ!」と叫んだ日のこと

NO NEW YORKとTHE POP GROUP

『NO NEW YORK』を聴いたときに初めて、「僕らの音楽はこれだ!」そう思ってしまったのだ。

 1980年1月、阿佐ヶ谷駅徒歩10分、四畳半一間の一軒家、家賃2万5千円という風変わりな物件にオレは越してきた。戦前に建てられたであろう小さな離れで、大家さんが住んでいる古いお屋敷の庭の中に建っていた。と書くと風情がありそうだけど、実際は小さな庭にかろうじて残っているボロボロの木造家屋で、四畳半の他に一畳ほどの台所と和式トイレ、玄関の鍵も申し訳程度についている江戸時代の錠前みたいな形状のもので、でもまあこんなボロ家に入る泥棒もいないだろうって感じだった。感じだったけど、何より嬉しかったのは、誰に気を使うこともなくギターが弾けて音楽も聴けることだった。さすがに四畳半は狭かったんで、近所の酒屋からビールのケースをいくつも譲ってもらい、大きな板を手に入れて高さ1mほどのベッドを制作、ベッドの下を楽器や衣類、レコードやカセット置き場にして、のこり二畳ほどが楽器を弾いたりする生活スペースだ。なんだか自分の城が出来たみたいで嬉しかった。

 もう一つ嬉しかったのは、阿佐ヶ谷の充実した定食屋の数々だった。当時は一食にかけられる予算は300円前後、それも1日か2日に1回が限界であとは自炊をしていた。自分で米を炊いて簡単なオカズを作ったり、チャーハンやケチャップで炒めるだけのスパゲッティだったり、あとはインスタントラーメンってあたりが自炊のほうの常連だったけど、でも、なんか外食が好きで。それも洋食とか中華が大好きで、阿佐ヶ谷にはそんな貧乏学生のニーズにぴったりの店がたくさんあったのだ。一番行ったのは駅の南側にあったキッチントップ。ここは300円でカツやコロッケのついた定食が食えて、なんか独特の味だったけど忘れられないなあ。それから高架下にあったクロンボ。ここはハンバーグ定食の店で400円くらいだったからちょっと贅沢したい時に。100円高いだけのことはあって本当に美味かった。本当にお金がない時は同じく高架下にあった牛友チェーン。味はまあって感じだけど180円で牛丼やカレーが食えて実にありがたかった。バイトのギャラが入って強気の時は富士ランチ。500円出すと本当に泣けるくらい旨い洋食が食えた。この富士ランチはわりあい最近まで同じ場所に現存していたけど、どうなったのかな。ほかにもよく行く中華屋が二軒、たまに行く定食屋も何件かあった。

 あ、そういえばこの頃、せめてインスタントラーメンを食べるときにはネギくらいは入れたいもんだと、八百屋で泥がついたネギを1本買ってきて、こいつを頭から3分の2だけ使って、あとは根っこの方を水につけておけば、またネギの芽がのびてきて、永遠にラーメンの薬味ネギに困らないはず……という画期的な方法を思いつき、実際にやってみたのよ。なにごとも実験精神。で、どうなったと思います。これが驚くことに、芽、本当に出てくるんです。このときの嬉しかったこと。ところがどっこい、世の中そんなに甘くはない。2回くらいはこれでなんとかいけるけど、3回目くらいから明らかに不味いし、ふにゃふにゃしだす。4回目は、もうなんかネギって感じじゃなくて、5回目になると劣化度合いがひどくて食べるとお腹壊すかもってレベル。結局素直にネギをそのまま使うのと大して変わらないし、そのほうが格段に美味いという結論。う~、なんか貧乏くさい話ですいません。音楽の話をしなくちゃ。

  この狭い四畳半も、越して半月もたたないうちに、あっというまに皆の溜まり場になってしまったのだ。よくもまあこんな狭いところにって思うけど、若いってのはそういうことなのよ。今はとてもできないなあ。でもって一番来たのは例によってサックス吹きの林。おなじくよく来たのがサックス吹きの野本。この野本ってのはジャズ研の1年後輩なんだけど、のちのちヒカシューのメンバーになる野本和浩のことで、最初はギター弾きだった。それもすごく上手いギター弾きだった。あるときベース弾きの阿部と一緒に、あ、こいつも一つ下のジャズ研の後輩で、この二人でうちに泊まりに来て、

「大友さん、オレ、ギター弾いてるけど本当はドルフィーとかやりたいんです」

 だったら、サックスやればいいじゃんってことになって翌日3人で楽器屋に行ってアルトサックスをローンで購入。彼はメキメキ上手くなっていってそのうちヒカシューのメンバーになっていくんだけど、その辺の話はまた今度。野本は十数年前に、阿部も最近死んでしまって、この話を知っているのはオレだけになってしまった。

 そしてもう一人、ここに良く来たのは小学校からの同級生のアベくんだった。おんなじ「あべ」でベース弾きなんで、わかりにくいけどこっちはカナタカで「アベくん」。前の連載のときにも出てきたベース弾きのアベくんで、中学の学園祭のときにアベくんやクワバラくんのステージを見て、彼らが女の子にキャーキャー言われているのを心底羨ましく思ったあのアベくんだ。

 アベくんも東京に出てきたところまでは知っていたけど、いったいなにをやって生活しているのか、だいたいどこに住んでいるのかも謎で、ただ、いつもふらりとなんの前ぶれもなくやってくるのだ。しかも大抵は、見たこともない不思議なレコードや雑誌を持って現れる。おまけに持ってきたレコードをうちでひととおり聴くと、そのまま置いていってしまう。間章がやっていた雑誌『モルグ』をうちに持ってきて置いていったのもアベくんだった。日本の即興シーンにおいて、もう超貴重としか言いようのないこの雑誌は今でもオレの手元にある。

 あの日のことは今でも鮮明だ。無口なアベくんは、いつもどおり突然やってきて、ものも言わず、何枚かのレコードを袋から取り出して、勝手にプレーヤーにのせて聴き出すのだ。その中の1枚が、輸入されたばかりの『NO NEW YORK』だった。1曲目のコントーションズが鳴り出した瞬間のことは今でも忘れられない。

「な、な、なんだ、これ!」

 もう全てが持っていかれるような衝撃、音楽で世界がひっくり返ったのは後にも先にもこの時だけだ。阿部薫のときも、高柳昌行のときも、デレク・ベイリーのときも衝撃だったけど、でも最初にきたのは「すげ~~」ではなくて、巨大な「クエスチョンマーク」のほうだった。でも「コントーションズ」は違った。いきなり「なんだこれ!」と「最高!」が同時にやってきたのだ。

 学生運動の団塊の世代が夢中になっていたようなジャズやロック、フリージャズなんかを後追いで聴いていたオレにとって、この日がどれだけ衝撃的だったことか。コルトレーンもデレク・ベイリーも、ジミヘンも高柳昌行も、阿部薫も、皆、かなり年上の兄貴達の世代の音楽で、自分はなんだか出遅れてしまったような感じがずっとしていて、なんでオレ、もっと早く生まれてこなかったんだろうって思ったもんだけど、『NO NEW YORK』を聴いたときに初めて、

「僕らの音楽はこれだ!」

 そう思ってしまったのだ。コントーションズだけじゃない。アート・リンゼイやイクエ・モリがいたDNAもめちゃくちゃカッコよかった。おまけにこの時アベくんが持ってきたもう1枚がTHE POP GROUPの2枚目のシングル盤「We Are All Prostitutes」だった。これもめちゃくちゃカッコよかった。ゲストで入ってるトリスタン・ホンジンガーのアナーキーなチェロが最高だった。これまで聴いてきたあらゆる録音とはまったく違う、歪んだ薄っぺらな音に痺れまくった。僕等は『NO NEW YORK』の裏ジャケットのメンバーの恐ろしげで汚い写真を見ながら、当時のニューヨークやロンドンのライブハウスでどんなことがおこっているのかを一晩中想像しながらレコードに何度も何度も針を落とした。これまでセックス・ピストルズにしろなんにしろ、ファッショナブルすぎてほとんど興味をもつことのなかったパンクに初めてはまった瞬間だった。といっても当時、これをパンクだとはまったく思ってなくて、フリージャズと即興とロックがグチャ混ぜになった新種の音楽だと思っていた。これこそ僕らの音楽だって。

 翌日からがぜん、自分の音楽がやれそうな気がしてこの2枚にあわせて、ギターを弾きまくった。カセットやオープンリールレコーダーにわざとレベルオーバーで録音して、あの独特の録音の感じを真似してみたりした。サックス吹きの林や野本が家にくるたんびに『NO NEW YORK』やTHE POP GROUPを聴かせて

「こんなバンドをやろう」

って誘いまくった。ほどなくオレははじめてのバンドを作ることになるけど、その話はまた次回。

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