加納 Aマッソ

第13回「みんなで勝ち得た、それでいいのさ」

 芸歴5〜6年を過ぎたあたりから、ピン芸人という存在に対してうっすらと劣等感のようなものを抱きはじめた。その感情はどうやら芸歴を重ねるごとに強くなっているようだ。舞台袖で自分の出番を待ちながら、ピン芸人がたった一人で観客の視線を背負い、ネタを介して自分の世界を繰り広げているのを見て、自分はこのあと同じ「笑い」という種目に、卑怯にも二人掛かりで挑むのか、と恥ずかしさを覚えることもある。もちろん、個人の芸をみせることと、社会の始まりともいわれる二人のやり取りをみせる芸のあいだには明確な違いがあるのかもしれない。それでも楽屋で壁に向かいながら一人でセリフに没頭している姿をみると、いつも「崇高」という言葉が浮かんできて、自分たちは対等に戦っていると胸を張って言えるだろうかと、もやもやとした気持ちになる。数年前、相方が出番に間に合わず、急遽ひとりでネタをしなくてはならなくなった時のあの緊張は、コンビでの初舞台や、人生初のデートの比ではなかった。そんな思いを、ピン芸人は常に味わっていると思うと、本当に頭が下がる。
 それでもなお、私はコンビとして活動を続けていく。今のところそういう生き方を選んでいる。そうなってくると、否が応でも「コンビとしてのかっこよさ」を考えざるを得ない。人は誰でも自分の立場を卑下し続けることは、なんていうか、しんどい。しんどいのはやんなっちゃう。何としてでも「こっちはこっちでね、イケてるんだよ、へへん」と誇りを持たなくては、この先創作活動する上で都合が悪いのだ。
 さりとて、である。世間でよく言われる「コンビ愛」なるものに焦点を当てても仕方ない。当事者からわざわざプレゼンするものでもないし、愛を商品化するのは私の仕事ではないはずだ。またイチローやカズのように、一つのことを継続していること自体に価値を見出せるのには、まだまだ時間がかかる。
 では何があるか。「ボケの幅」という観点からみてみたらどうか。二人のほうが、いろんな角度から笑いを生めるのではないかという考察だ。しかし、それもどうやら厳しい。漫談にしかできない笑いも確実にある。こちらが「二人でしかできないコント」で対抗しても、向こうには「一人で二役を演じる」という武器もある。どちらに分があるか判然とさせるのは、なかなか簡単なことではない。
 ふと、手柄、というキーワードが浮かんできた。もちろん芸人にとっての手柄というのは「ウケた」という一点のみであるが、ピン芸人はそれを絶えず一人占めしている。誰にも渡さないという強固な態度。なんともいやしい奴だ。それに比べてコンビはどうか。いつもいつでも、ちゃんと分けあっている。立派だ。「自分もよくやったがお前もよくやった」である。もし出番直後の私のもとにインタビュアーがやってきて「だれの手柄ですか?」と聞いてきたとしたら、「ま、いいじゃないかそんなことはさ。お客さんが笑った。それでいいのさ。それで、満足なのさ」と、いたって涼しい大人な対応をすることができる。ピン芸人だとそうはいかない。「俺! 俺俺俺〜!」とまさに千切れんばかりに手をあげるに違いない。ああ、なんてみっともない。きっとピン芸人は学生時代、合唱コンクールの後の校長先生の「みなさんとても美しいハーモニーでした」という総括を聞いて皆が喜んでいる時に、「そんなことより俺の独唱パートは? めっちゃ良くなかった?」と、自分だけの評価が得られなかったことに不満を持っていただろう。みんなに一つだけ与えられた表彰状にも今いちピンとこなかったに違いない。そんなピン芸人の肩をポンポンと叩いてやり、「みんなで勝ち得た、それでいいのさ」と声をかけたのはもちろん、やがてコンビ芸人になる奴らだ。コンビ芸人は、他人のフォローもできる素晴らしい人格なのである。 
 ならばトリオ。トリオなんかは全然だめだ。なにせ3人で代わる代わるあーだこーだ言うのだ。そんなうるさいことはない。
 結局やはり、コンビが一番だ。コンビでいながら、自分がネタを書いていることをしっかりアピールする。それが一番なのである。