ちくま文庫

失われたものの痛みから
『想像のレッスン』(鷲田清一)解説

鷲田清一さんが「他者の未知の感受性にふれておろおろするじぶんをそのまま晒けだしたかった」というアート評論『想像のレッスン』についての服飾デザイナー・堀畑裕之さんの解説を公開します。

 ふとした拍子に思いきり尻もちをついてしまった。翌朝も痛みが強く、整形外科に行くことになった。レントゲン撮影後に診察室へ行くと、ぎょっとするような見慣れない骨の影が画面に大写しになっていて、医者に告げられた。


「尾てい骨が折れていますね。ほら、下から三つ目のこのあたり。」


 先端の鋭くとがった、恐竜のしっぽのような形の骨だった。人間にもしっぽがあり、お尻の中にしまいこまれている事は知識としては知っていた。手で触るとそれらしきものがある事も、昔確かめたことはあった。しかしまさか、そんな退化した骨を骨折することになろうとは!
 ギプスをするわけにもいかず、能楽師のようにソロリソロリとすり足で歩く。今こうして座って原稿を書いていても、私のしっぽはズキズキうずく。今まで忘れられていた恨みをはらすかのように。

 

 さて、本書『想像のレッスン』の冒頭はこうである。


  ここにあるものを手がかりにここにないものを想う


 鷲田さんによる厳しいレッスンはもう始まっていた。いままでずっとあったのに、完全にないものとしてきたしっぽの存在を突きつけられて、すでにないものを想うことになった。ふと、むかし大学一年生の教養科目で習った命題が思い出された。
「個体発生は系統発生を繰り返す」
 十九世紀中頃に生物学者エルンスト・ヘッケルが唱えた学説だ。つまり私たちは母親の胎内で発育する時に、三十八億年の生命の進化の過程をなぞりながら、その形態を反復するというものだ。単純な細胞分裂から始まり、最初はエラのある魚の形から、手足が生えて両生類になり、トカゲになり、哺乳類から最後に人間になる。私たちは母なる羊水の海の中で、立派なしっぽを悠々と伸ばしていた。だが生まれる前に急に短くなってお尻の中にしまい込まれてしまう。
 実際の歴史はどうだったのだろう。私たち人類のしっぽが消え始めたのは、約三千万年前。そして森の樹上生活から、二足歩行で大地を歩き始めたのが約六百万年前だという。もうしっぽでバランスをとったり、枝をつかんだりする必要がなくなり、ついに不要なしっぽを退化させてしまったのだ。
 人類のたどってきた長い歴史を想像する。何万世代も命を遡る旅をしていくと、もう人類すら一瞬で消え去り、爬虫類や魚類だった時代が遠く果てしなく続く。そしてこの気の遠くなるような古い時間のたなびきを想像させてくれたのが、あのレントゲンの影と、いまお尻の真ん中にあるリアルな痛みだった。


 閑話休題。
 この著作は、一つのテーマをめぐる哲学的な論考とは違って、同時代に出会ったアートや本、ダンスや舞台芸術などに、鷲田さん自身の想像力がどう揺れ動かされたかについて熱く語ったものだ。しかし初版が発行されたのが二〇〇五年だから、もはや本や絵以外はどこにいってもそれを実際に見ることはできない。挿絵のように小さく掲載されているモノクロの写真をたよりに、想像をたくましくせねばならない。鷲田さんのリアルタイムの感動を、二十年近く経ってから読者は想像しながら読むことになる。だから私たちに課せられた宿題は、過去と現在の二重の時間軸の中で、言葉だけをたよりに想像することだ。このレッスン、京都弁で言ってしまえば、何というか、なかなかの「いけず」である。

 そして章立てのタイトルをあらためて見てほしい。「壊れたもの」「塞がれたもの」「棄てられたもの」「見失ったもの」「消え入るもの」……。私たちの想像が向かうべきものとして挙げられているのは、ほとんど存在の基盤を失って崩れ去っていくものなのだ。楽しい想像というよりは、痛みを感じなくなった自分の頬っぺたをつねって、もう一度その痛みを想像するレッスンなのだろうか。
 それでも私たちは、まだ名前のない事象を名付ける見事な手際と、熟考の素潜り時間の長さに、知らぬ間にぐいぐい引き込まれてしまう。もう誰もその体験をすることはできないのに、あたかもそこに自分もいて、哲学者の遊歩に連なっている気分になってしまう。
 そういえばつい先日、私は本当に鷲田さんと二人で、法然院から若王子(にゃくおうじ)までの疎水沿いの「哲学の道」を歩きながら対話をした。現代の哲学者と「哲学の道」を歩くなんてちょっと出来過ぎだが、とても贅沢な時間だった。鷲田さんは対話を深めながら、時々「ほら、あれは誰々の家や」とか、「お、あの看板なんだろう?」とか、周囲の世界に常に敏感に反応しておられた。そして対話に戻ると、さっき途切れたところから自然に語り続けられた。それはとても印象的な道行きだった。きっと御本人はあま
り意識しておられないと思うけれど。
 そのあと本書を読んで、私はとても腑に落ちた。一見なんの繋がりもなさそうな同時代のアートや文芸、舞台のシーンを、好奇心旺盛な遊歩者のように読み解いていくその手法は、もしかしたら鷲田さんの世界に対する接し方そのものではないだろうかと。時代を生み出すアーティストの隠れた動機や、社会の底に醸成されつつある切迫した空気感を、痛みをともなった言葉で次々に想像していく。とはいえ悲観しているわけではない。忘れられたもの、失われたものを補うかのように、鷲田さんは言葉の手のひらでその虚空を撫でていく。あたかもそれがあるかのように、まるでもうないかのように。本書を読んで、私たちは知らぬ間に失った大切なものを想像せざるを得ないが、同時にそれをあらためて愛おしく感じるだろう。鈍く痛む小さな骨のように。

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