ちくま新書

この世界に避けがたく存在する「運」について

「人生はギャンブルだ」。そういわれたら、あなたはなんと答えるでしょう。ギリシア神話にはじまり、古代哲学、デカルト、アダム・スミス、カント、ヘーゲル、そして現代に至る先人たちの「運」をめぐる思考を追った『不道徳的倫理学講義』の「はじめに」を公開します。
秋元治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』第60巻 (C)秋元治・アトリエびーだま/集英社

 上のひとコマは、漫画『こち亀』の主人公・両さんが放った名言として、しばしば引き合いに出されるものだ。

 この台詞は不道徳なものに思われるだろうか。すなわち、人生の重要な局面をギャンブルに喩える不真面目さや、将来を慎重に考慮しない軽薄さや無責任さ、運に頼って計画や努力を軽視するだらしなさといったものが表れているように思われるだろうか。実際、両さんは次のコマで、後輩の麗子と中川から、「そう思って無計画に生きてるのは両ちゃんだけよ」、「みんなはギャンブルと思ってませんよ」と、つれなくあしらわれている。
しかし、彼らの言ったことは本当だろうか。入試や就職や結婚などにギャンブル的な要素は一切ないと、皆が本当に思っているのだろうか。そうではないだろう。
 
「言われてみればそうだ」、「確かにそういう面はある」という風に感じる人が多いからこそ、この台詞は名言として扱われているはずだ。
 我々の人生の道行きは、運に大きく左右されている。大学の受験勉強をどれだけ頑張っても、入試の当日に突然体調を崩してしまうかもしれない。必死に就活に打ち込み、遂に希望の企業に入れたとしても、配属先の上司とそりが合わず、強いストレスに苛まれる日々になるかもしれない。何年も付き合った人と、慎重に検討した上で結婚に踏み切ったとしても、思いがけない出来事をきっかけに、修復しようもない溝が二人の間にできてしまうかもしれない。あるいは、入試も就活もうまくいき、結婚生活も問題なく、穏やかな日々を過ごしているとしても、ある日突然、事件や事故や災害などに巻き込まれ、これまでの生活が崩壊してしまうかもしれない。
 そして、運は、そうした未来の不確かさだけでなく、いまの自分をかたちづくる過去にもかかわっている。裕福な家庭に生まれ、良質な教育を受けて、多様な進路を自由に選択できる環境にあった人もいれば、そもそもそのようなチャンスを与えられなかった人もいる。親の愛情に恵まれた人もいれば、酷い虐待を受けて育った人もいる。健康な身体をもった人もいれば、長く病に臥しがちな生活を余儀なくされてきた人もいる。それらはいずれも、いわゆる「自己責任」に帰すことができる事柄ではない。

 このように、幸運や不運という要素が広範に織り込まれている世界は、我々が「そうであってほしい」と望み、「そうであるべきだ」と求める世界とは異なっているかに見える。我々の生きる世界では、幸運は称賛されるべきものではないし、不運は非難されるべきものではない。自由な意志と自律の精神を基に努力した者が報われるべきであり、怠惰な「運頼み」の者が分不相応な報酬を与えられるべきではない。善き心をもち、善き行いをする者こそが幸福になるべきであり、悪人が非難や罰を逃れるべきではない。――そうした調和や秩序、あるいは公正さというものを、世界に対して我々の多くが求めているように思われる。世界に対するこの種の要求は、心理学の分野では「公正世界仮説(just-world hypothesis)」と呼ばれているものだ。

 しかし、この道徳的な要求は、それ自体がときに不道徳的な機能を果たすことがある。
たとえば、何か重大な事件や事故が起こったとき、加害者に対してだけではなく、運悪く巻き込まれたに過ぎない被害者に対しても、「あなたにも落ち度があったのではないか」という指摘がなされる場合がある。痴漢に遭った人が「露出度の高い服を着ていたのではないか」と言われたり、盗難に遭った人が「注意が足りなかったのではないか」と言われるといった具合である。こうした傾向の背後には、誰かに悪い出来事が降りかかったとすれば、それは当人の行いが悪かったからだ、と解釈したい心理が働いている(村山・三浦「被害者非難と加害者の非人間化」)。そう解釈することができれば、「自業自得」「因果応報」という公正な秩序が行き渡った安定した世界観を維持できるからである。その代償として、被害者がまさにいわれのない非難に見舞われ、不道徳的な扱いを受けるにもかかわらず。
 この皮肉な事態には、道徳をめぐる問題圏から運の要素を排除しようとすることの問題が如実に顕れていると言えるだろう。我々はいつの間にか、幸運や不運は道徳的な善さや悪さとは無関係だという見方を当たり前のこととして受容している。しかし、道徳的な行いや不道徳的な行いも含めて、我々の営む生活がひろく運の影響を免れないものであることも確かなのだ。

 それでは、道徳をめぐって古来様々な議論を展開してきた倫理学は、道徳と運のこうした緊張関係についてどう扱ってきたのだろうか。また、その探究の先に、どのような展望が見えてくるのだろうか。本書は、古代から現代に至る倫理学の歴史に遺された、運にまつわる思考の痕跡を探っていく。本書の中心となる第Ⅱ部は、古代から近代までの議論を辿り、それを踏まえて第Ⅲ部は、現代の議論を追う。
 こうした構成のため、本書は一風変わった倫理学の道案内となっている。というのも、道徳と運のいわば「食い合わせ」の悪さから、倫理学の紹介というものは一般的に、幸運や不運といった要素を背後に隠して、道徳的な世界の実現のためにどのような理論(功利主義、義務論、徳倫理など)がありうるのか、という内容を前面に押し出すかたちで組み立てられているからである。本書は、その後ろに回り込み、正統な倫理学史ではあまり案内されない裏通りにむしろ足繁く通うツアーとなる。倫理学の入門書や概説書がすでに数多く存在するなか、そこに新しく本書を加える意義があるとすれば、それはさしあたりこの点にあるだろう。
 また、そのように倫理学史の裏通りに光を当てることは、古来の倫理学のあり方を――さらには、一般に広く受け入れられている道徳についての見解を――問い直すことにつながるはずである。本書は、その道筋において、道徳とその外部、理想と現実、人間一般とこの私、賢者と愚者、神と人間という対比を何度も照らし出していく。それは総じて、人間のあるべき生と、人間のあるがままの生の裂け目を見つめることであり、人間とはいかなる存在と言えるかについて、いまあらためて考えることでもある。とりわけ本書では、人間の偉大さとは何か、真摯な生き方とは何かという問題に焦点を当て、その意味を問うことになるだろう。
 したがって本書は、まずもって、不道徳的な観点から倫理学史を辿る講義だと言える。 すなわち、この世界には運が存在し、人生には「賭け(博打、ギャンブル)」の側面が避けがたく伴うという観点から、道徳や倫理をめぐる人間の思考の歴史を紐解こうとするもの である。また、その試みはやがて、運の要素を受け入れて取り込む倫理学――言うなれば、不道徳的倫理学――とはどのようなものでありうるのかを素描する営みともなっていくだろう。