アメリカ音楽の新しい地図

7.ケンドリック・ラマーと黒のグラデーション

トランプ後のアメリカ音楽はいかなる変貌を遂げるのか――。激変するアメリカ音楽の最新事情を追い、21世紀の文化=政治の新たな地図を描き出す!

薬物と大量投獄
 1987年生まれのケンドリック・ラマーのデビューアルバムは《セクション80》(2011)と題されている。このタイトルは「80年代生まれ」という世代意識を表すだけでなく、アメリカの住宅補助政策を示す「セクション8」という言葉がかけられている。「セクション8」は1974年の住宅・コミュニティー開発法において1937年連邦住宅法の第8節(セクション8)を改正するかたちで制定されたヴァウチャー・プログラムである。それは低所得者の借り手が家賃の約30%を支払い、残りを国が負担する家賃補助政策だが、とりわけ1980年代のレーガン政権以降、アメリカの住宅補助政策はセクション8を拡張することで公共住宅の建設から家賃補助を中心とする政策へと大きく転換した。
 この政策により、多くの黒人が郊外のより良い環境の住宅地に移り住むことが可能になった。しかし一方、こうしたヴァウチャーを利用して移転した黒人家族と従来の地域住民の争いも絶えない。白人住民の苦情によって黒人家族が何度も警察の尋問を受け、結果的に移転を余儀なくされる事例も多数報告されている。もちろん19世紀末以来、白人居住地域に黒人が移り住むことは常に社会問題となっており、不動産売買・賃貸においても人種差別的な慣習が横行した。1968年の公正住宅法によりあからさまな差別は禁止されたものの、形を変えた嫌がらせは今も存在する。新しく越してきた黒人家族がセクション8の受給者かどうかを執拗に追求し、ちょっとした騒音やありもしない苦情を申し立てて警察を呼ぶ。セクション8の受給者は黒人だけではないが、こうしたトラブルが白人/黒人住民間で突出して起きていることもあり、現在「セクション8」は貧しい黒人を表す実質的なNワード、差別用語として機能しているのだ(1)
 ケンドリック・ラマーは、黒人蔑視を含意する言葉を自らのデビューアルバムに冠した。その最初の曲〈ファック・ユア・エスニシティ〉が、「おまえが何であろうと気にしない/黒人、白人、アジア系、ヒスパニック、俺にとっては何の意味もない/エスニシティーなんてクソ食らえ」と人種や民族を否定するコーラスで始まるのも示唆的だが、同時代の黒人コミュニティーを考察する上でさらに興味深いのは三曲目の〈A.D.H.D.〉だろう。「注意欠陥・多動性障害」を意味する楽曲でラップされるのは、ケンドリックの世代に蔓延するドラッグ・カルチャーである。
「彼にバイコディンをもってこいと誰かに言う/これで苦痛から解放されたらいいと思う/彼が今日感じた感覚から/わかるだろ、セクション80のひとりなら/誰とも心を通じ合えない/なぜなら、孤独で、孤独で/マリファナとエンドルフィンが自分を強く、強くする」と続く最初のヴァースにおいて、ケンドリックは同世代(セクション80)に呼びかけながら全米で社会問題となっている麻薬性鎮痛薬オピオイドの過剰摂取、その主要なブランドのバイコディンに言及する。数行後には「俺たちの世代は咳止めシロップを水のようにすする」とヒップホップ界に蔓延するリーン――オピオイド系の薬物コデインを含む咳止めシロップをもとに作られる紫色の飲料――にも触れられるが、次のヴァースに登場する「彼女」は次のように語り手に言う。「私たちがなぜクラック・ベイビーか知ってる?/80年代に生まれたからよ、ADHDで狂ってるのよ。」ここでケンドリックは自らの世代に言及しつつ(セクション80)、住宅補助受給者として蔑まれる黒人(セクション8)と、注意力の欠如や無気力を症状とするA.D.H.Dを複数音節で韻を踏みながら結びつけている(80=エイティー=エー・ディー[A.D.H.D.])。
 それ以外にも薬物と精神的/肉体的苦痛のモチーフはアルバムを通して頻出する。7曲目の〈ロナルド・レーガン・エラ〉には「ザニー(Xanny)のように皮を剥く」と、同じくその中毒性が危険視される抗不安薬ザナックス(Xanax)の名称があげられるし、「無駄に|静脈に(in vain)注射して/バイコディンは苦痛を取り除かない」というラインもある。それはレーガン政権下に生まれた80年代世代の弱さや脆さに関連づけられるだろう。「奴らは俺たちをいかれた移民のような目でみる/毎日朝起きて、俺はまた罪を犯す/俺は市民じゃない、ただのセクション80のニガーだ」とケンドリックがラップする10曲目〈チャプター・テン〉は、「傷つきやすさ(vulnerability)、それこそがお前たちの世代だ。お前たちの痛みを見せてみろ」というラインで締めくくられる。
 〈A.D.H.D〉で言及される「クラック・ベイビー」――1980年代から90年代にかけて都市部を中心に拡散したクラック(安価で強いコカイン)を過剰に摂取した母親から生まれた子供たち――は、ケンドリックの世代を巣食う薬物中毒が実は親の世代から受け継がれたことを暗示する(2)。 法学者ミシェル・アレキサンダーは、このように世代をまたいで蝕む薬物の問題と、現在の黒人コミュニティーをめぐるもっとも重要な論点の関連性を指摘する。それはアフリカ系アメリカ人の大量投獄(mass incarceration)である。2000年代に入り、社会学者デヴィッド・ガーランドなどによって提起された問題は、アレキサンダーの著書『ニュー・ジム・クロウ』(2010)の刊行によって決定的に広まった(3)。 統計によれば、違法ドラッグの売買にかかわる犯罪者の割合は人種によってほとんど変わらない(むしろ白人若年層の方がドラッグ関連の犯罪に関わる確率が高い)。それにもかかわらず、州によっては麻薬がらみで投獄される黒人の割合は白人の20倍から50倍であること。現在、アメリカの主要都市において黒人若年層の80%近くに犯罪歴がついていること。アメリカの犯罪率は他の先進国とほとんど変わらないのに投獄率は他国に比べて6倍から10倍以上だということ。
 こうした黒人の大量投獄には明白な理由があるとアレクサンダーは主張する。麻薬撲滅を掲げたレーガン大統領が「戦争」(War on Drugs)を宣言したのは1982年だが、それはクラックが都市部で問題となる以前であり、しかも麻薬関連の犯罪数が減少しているときだった。数年後にロサンゼルスの黒人貧困層を中心にクラックが流通すると、レーガン政権はその暴力性や悪影響――クラック・ベイビーやクラック・マザー、クラック・ホア(娼婦)など――を大々的に宣伝し、新聞やテレビなどのメディアで黒人の麻薬中毒者や売人の姿が絶え間なく映されるようになる。こうした政策はクリントン政権にも受け継がれ、1972年に35万人以下だった受刑者の数は200万人を超え、世界人口の5%を構成するアメリカは世界の収監者数の25%を占めるようになったのだ。アメリカの大量投獄は刑事司法(criminal justice)ではなく人種差別(racial justice)の問題であり、それは実質的に新たなジム・クロウ(人種隔離政策)として機能しているとアレキサンダーは断言する(4)
  ブラック・ライヴズ・マター運動に揺れる2016年、そのグラミー賞授賞式のパフォーマンスを牢獄のセットで始めたケンドリックの意図は明らかだが、そうした主題はリリックにも読み取ることができる。デビュー作《セクション80》の〈ポー・マンズ・ドリームズ〉ですでに「刑務所を見てみたいと思っていた/小学校を出たあとに/裁判官が俺に刑を宣告するとき、その顔をにらむのがかっこいいと思っていた」とケンドリックの日常と刑務所が身近にあることは描かれるし、《トゥ・ピンプ・ア・バタフライ》収録の〈キング・クンタ〉でも「お前を撃って左に飛び跳ねたら/俺は刑務所に行くことになるだろう」とラップされている。それは自分が生まれ育った地元(‘hood)そのものを牢獄/施設そのものと見ることにつながるだろう。「俺はゲットーに閉じ込められている(trapped)/そのことを誇りに思っているわけではないが/それは施設|監獄となっていて/俺はいつもそこに走って戻るんだ」(〈インスティトゥーショナライズド〉《トゥ・ピンプ・ア・バタフライ》)。
 だがこの監禁、投獄、収監のモチーフは先に触れた〈キング・クンタ〉で思いもよらない話題に紐づけられる。「ヤムこそが力/俺が街を歩くだけで臭う/ラップには一言あるが、ラッパーのゴーストライターだって?/何がどうなってるんだ/誰にもいわないって誓ったが/お前たちのほとんどはバーをシェアしている/二人用の監房の二段ベッドの下に充てがわれたように」。ここでは黒人コミュニティーをめぐる最重要課題である大量投獄の主題がバー(鉄格子・小節)をシェアするラッパーのゴーストライターの話題に横滑りしている。この牢獄からゴーストライターへの意味の滑走が啓発的なのは、ヴァースの冒頭で触れられる「ヤム」(Yam=サツマイモ)を通してラルフ・エリソンの『見えない人間』(1952)との関連性を強く喚起するからである。20世紀を代表する黒人文学の主人公は「白人だけに限られているビルの中に、そのビルの地下室の、四方をすっかり塞がれていて、19世紀ごろからすでにその存在が忘れ去られている部分に、ただで暮らして」おり、この記述自体が黒人と監禁のテーマを反復しているが、アメリカ社会でまさにゴーストライターのように不可視な存在として扱われる黒人をめぐる小説において、「ヤム」はその主人公の南部的出自を再確認する場面で叫ばれる――「I yam what I yam!」(5)。 だが、このアイデンティティーの啓示も長続きせず、主人公は最後まで名もなき黒人の比喩であり続けている。ラルフ・エリソンの『見えない人間』が描く「不可視な存在としての黒人」というモチーフについては本論の最後であらためて言及する。
 また、この「牢獄」のモチーフは必然的に心の壁=内面性という主題に結びつく。〈グッド・キッド〉の冒頭、ケンドリックは「この壁の中を覗けば、俺が禁断症状を起こしているのがわかるだろう/欲望に捕われた囚人のように」と黒人コミュニティーをめぐる社会問題を個人の内面の比喩に変換する。そして「狂った街の優等生=good kid, m.A.A.d city」として生きるケンドリックの苦悩が次のように表現されるのだ。「赤か青のどちらかに決めないといけないとき、俺はどうすればいい/俺はどちらでもない、でもそういうことに慣れていることも知っているだろう/いつもトラブルを起こして/ストリートの序列の中で生きている連中を」。 
 ケンドリックは赤(ブラッズ)と青(クリップス)に代表されるカラーギャングのいずれにも属することができない。そのことで彼は同世代のギャングのメンバーに「首を踏みつけられ」、相手の「ナイキシューズに血がついてしまう」こともある。
 だが、この特定の集団に所属できないという主題は、次のヴァースで別の角度から論じられる。「パトカーのルーフの上で赤と青の回転灯が点滅し/犬が吠えるように訓練されているとき/俺はどうすればいいんだ」。ここでカラーギャングを意味していた「赤」と「青」はパトカーの回転灯の光にスライドし、今度はケンドリックが警官に「首を踏みつけられ」るのだ。「彼らが早口で話すのを聞いた/ “こいつはまだ若いが/ギャングに入っているに違いない”」。警察はケンドリックをギャングの構成員と決めつけ、そこから逸脱する「グッド・キッド」の存在を認めない。ケンドリックは二つのギャングのいずれにも属することはできないが、警官からは当然のようにそのメンバーだと看做される。どちらのグループにも所属しないことと、そのグループから逸脱することを許さない外部の眼差し――ここにはケンドリックのリリックに通底する重要な主題が潜んでいるといえるだろう。

(1)  Norrinda Brown Hayat, “Section 8 Is the New N-Word: Policing Integration in the Age of Black Mobility,” Washington University Journal of Law & Policy, 51.61(2016): 64.; Sean Zielenbach, “Moving Beyond the Rhetoric: Section 8 Housing Choice Voucher and Low-Income Urban Neighborhoods,” Journal of Affordable Housing & Community Development Law 16.1 (Fall 2006): 9-39.

(2) 「クラック・ベイビー」を報じる最初の新聞記事のひとつは、幼児が痛みに体を歪めている様子や母親の無関心をいくぶんセンセーショナルに報じている。Alma Taft, “Crack babies: Alma Taft tells off the tragic children born to drug-addicted mothers and the home in Harlem that is trying to help them,”  The Guardian, Dec 16, 1986: 20.  

(3) David Garland, ed. Mass Imprisonment: Social Causes and Consequences. London: SAGE Publications, 2001.; Michelle Alexander, The New Jim Crow: Mass Incarceration in the Age of Colorblindness, New York: New Press, 2010. アフリカ系アメリカ人の大量投獄問題は、たとえばネットフリックスのドキュメンタリー『13th――憲法修正第13条』(Netflix, 2016)でも詳細に解説されている。

(4) Alexander, The New Jim Crow, 5-9.; Michelle Alexander, “The War on Drugs and the New Jim Crow,” Race, Poverty & the Environment, 17.1 (Spring 2010): 76.

(5) ラルフ・エリソン(橋本福夫訳)『見えない人間Ⅰ』早川書房、1961年、6頁。

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