見え過ぎる黒人
ケンドリック・ラマーは赤(ブラッズ)と青(クリップス)のいずれのギャングにも所属することができない。同様に、アメリカ社会における黒(人)と白(人)の対立という世界観にも与しない。二元論の埒外に立つケンドリックは、カラリズム=内なる差異に目を向けるだろう。黒は単一ではない。黒を構成するグラデーション、その濃淡、その段階的な変化すべてを直視し、そのスペクトラム内の権力関係に目を光らせるのだ。
それは、現代のアフリカ系アメリカ人をめぐる状況がラルフ・エリソンの時代とは決定的に変化したことと対応している。エリソンが『見えない人間』を執筆した1950年代は、たしかに黒人は不可視な存在であり、だからこそキング牧師を始めとする指導者はシットインなどの運動を通してそのプレゼンスをアピールした。だがケンドリックが生きるのは、黒人に対するあらゆる暴力がスマートフォンなどで記録され可視化される時代である。
ミズーリ州ファーガソンで白人警官が18歳の黒人少年マイケル・ブラウンを射殺したことについて、ケンドリック・ラマーはあるインタビューで次のように答えている。
マイケル・ブラウンに起きたことは決して起きてはいけなかった。決して。でも俺たち自身がまず自分たちをリスペクトしなければ、やつらのリスペクトをどうやって得られるというんだ。俺たちの中から始まるんだ。デモを始めるだけではだめだ。物を盗んだりしてもだめだ――俺たちの中から始まるんだ。(10)
もちろん、この発言はアジリア・バンクスからキッド・カディにいたるまで、多くの黒人ミュージシャンの反発を招き、結果としてケンドリック・ラマーの政治性を疑う論者にあらたに根拠を与えてしまった。もともとケンドリックは内省的なラッパーとして評価が高く、それは彼が西海岸のギャングスタラップだけでなく、2000年代以降のカニエ・ウェストやキッド・カディなどヒップホップの内省化をもたらしたシカゴ派の影響を受けていることからも明らかだろう。「狂った街の優等生(m.A.A.d city, good kid)」であることの葛藤や疎外感はケンドリックのリリックにあふれている。
だが、彼の内面的な苦悩が黒人の大量投獄という問題を逆照射するように、ブラック・ライヴズ・マターのアンセム「オールライト」の内省も外部に開かれている。この曲の冒頭のライン「オレはこれまでの人生、ずっと戦ってきた(Alls my life I has to fight)」は、アリス・ウォーカーの代表作『カラー・パープル』のソフィアの発言、「生まれてからずっと、あたし闘わなきゃなんなかった。まず父さんと、そして男兄弟と。それから従兄弟たち、次に叔父たちと」を参照したものだ(11)。ケンドリック・ラマーはそのミソジニスティック(女性蔑視)なリリックがたびたび批判されるが、彼は黒人コミュニティー内の差別に言及する際に『カラーパープル』と『ザ・ブラッカー・ザ・ベリー』の女性主人公の声を借りて告発する。二重に抑圧された黒人女性の声を借りることで、差別の複雑な構造――これをインターセクショナリティーと呼ぶ――に目を向けることが可能になるからだ(12)。
こうしてケンドリック・ラマーは赤と青、黒と白、あるいは《ダム》のテーマでもある弱さ(weakness)と邪悪さ(wickedness)という二元論を拒絶し、それぞれのカテゴリーに潜在するグラデーションを凝視する。そうすることで疎外感と黒人の大量投獄、鬱とカラリズムの問題が照射し合うのであり、そのプロセスこそがケンドリックにとっての「政治」だといえるのだ。
(9) 「過視化」という用語については東浩紀『不過視なものの世界』朝日新聞社、2000年を参照のこと。
(10) Gavin Edwards, “Billboard Cover: Kendrick Lamar on Ferguson, Leaving Iggy Azalea Alone and Why ‘We’re in the Last Days’,” Billboard Jan. 9, 2015.
https://www.billboard.com/articles/news/6436268/kendrick-lamar-billboard-cover-story-on-new-album-iggy-azalea-police-violence-the-rapture
(11) アリス・ウォーカー(柳沢由実子訳)『カラー・パープル』集英社文庫、1986年、52頁。
(12) 1989年に黒人女性法学者キンバリー・ウィリアムズ・クレンショーが提唱した概念。黒人女性に対する差別において階級、人種、性差などの社会階層がどのように重なり合っているかを解明する。