ちくま学芸文庫

誰もが虐殺者になりうる

クリストファー・R・ブラウニング『増補 普通の人びと』

PR誌「ちくま」6月号より、田野大輔氏による書評を公開します。『増補 普通の人びと:ホロコーストと第101警察予備大隊』(谷喬夫訳)は、学芸文庫では異例の刊行前重版が決まり、さらにその後も重版が相次ぐ話題書。ごく平凡な市民たちはいかにしてユダヤ人大量殺戮の実行者となったのか。「誰もが虐殺者になりうる」という言葉が重く響きます。ぜひ、ご一読ください。

 第101警察予備大隊の「普通の人びと」がいかにユダヤ人の大量殺戮に荷担したかを描き出した本書は、壮絶な読書体験を与えてくれる名著である。
 ホロコースト研究の第一人者である著者は、戦後の裁判での大隊のメンバーたちの証言を利用しつつ、凄惨な現場の実態を浮かび上がらせる。ユダヤ人を駆り集めて処刑場に連れて行き、一人一人の首筋を撃って殺害する隊員たち。何時間も銃殺がくり返され、いたるところに死体が転がる現場。だがその残虐さだけが読者を戦慄させるのではない。
 著者は虐殺に加わった隊員たちの証言を検討しながら、彼らが目にしたこと、感じたことを克明に描き出す。任務を命じられて嫌悪感を抱きながらも、仲間から弱虫と思われるのを恐れて従った隊員。何とか銃殺しようとするも震えが止まらず、自分にはできないと離脱を懇願する隊員。そうした彼らの姿は私たちとほとんど変わらない。読者はこれなら自分もやりかねないと感じるに違いない。本書は誰もが虐殺者になりうることを提示してみせる。その圧倒的な説得力が背筋を凍らせるのだ。
 ホロコーストといえば、絶滅収容所でのガス殺がすぐに思い浮かぶ。だが実際にはそれより前にソ連領内で特別行動部隊による血なまぐさい射殺がくり広げられており、警察大隊もポーランドで同様の作戦に動員されたのだった。大隊の活動当時、絶滅収容所はすでに稼働していたが、そこに犠牲者を移送する仕事は必要だったし、収容所が一時的に受け入れを停止した際には、ゲットーなどで射殺も行われた。本書が焦点を当てるのは、「死の工場」による効率的な殺戮の陰に隠れたこれらの「汚れ仕事」の存在である。
 しかも著者は、そうした身の毛もよだつ仕事を担ったのが「普通の人びと」だったことを強調する。事実、隊員たちの多くは前線では使いものにならない中年の男性で、堅固なイデオロギーの持ち主ではなかった。そのような男たちが、何の心の準備もないまま現場に投入されたのである。任務の苛酷さを涙ながらに説明する指揮官の演説で始まった最初の虐殺は、隊員たちが不慣れなせいで阿鼻叫喚の混乱に陥った。犠牲者を撃ち損じて返り血を浴びる隊員、あまりの残虐さに耐えられず離脱する隊員が続出し、日が暮れた後も殺戮が続いた。
 だが虐殺を何度もくり返すうちに、隊員たちは徐々に仕事に慣れていく。彼らはなぜ虐殺を続けることができたのだろうか。
 誰もが虐殺者になりうるという本書の結論は、アーレントの「悪の凡庸さ」を想起させる。だが大隊のメンバーたちはアイヒマンのような机上の犯罪者ではなく、現場で直に引き金を引く殺戮の実行者だった。それゆえ、彼らの行動を行政的犯罪の観点から説明するのは無理がある。
 著者はむしろミルグラム実験などの社会心理学的知見に依拠しながら、現場に働く状況の力を析出しようとする。とくに重視されるのは、順応への圧力である。おぞましい虐殺に加わりたくないが、仲間に不快な仕事を押し付けるのは憚られる。自分が任務を拒否したところで、犠牲者の運命は変わらないだろう。そう言い聞かせて、虐殺を続けた者も多かったようだ。
 この種の心理的合理化を通じて、殺戮はしだいに効率化されていく。虐殺に慣れただけでなく、心理的負担を軽減する方法も導入された。一列に並ばせて一斉射撃を浴びせる方が、殺害の実感は薄れる。銃殺を外国人の対独協力者に任せれば、自分は嫌な仕事から解放される。犠牲者を絶滅収容所に送る任務なら殺戮を目にせずに済み、心も痛まない。こうして隊員たちは、効率的で無感覚な執行者に変貌していったのである。
 以上が本書の概要だが、文庫版には初版刊行後の研究状況の進展をふまえた「あとがき」と「二五年の後で」も増補されている。同じ警察大隊を分析したゴールドハーゲンを批判する著者の筆が冴えわたっており、こちらも読み応えがある。

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