万葉樵話――万葉こぼれ話

第一回 新元号「令和」と『万葉集』

新元号「令和」の典拠は『万葉集』。これを機会に『万葉集』に対する関心が高まっています。そこで、『万葉集』の研究で多くの著書がある東京大学名誉教授の多田一臣先生に『万葉集』の新しい知見や魅力について存分に語っていただきます。もちろん「令和」をめぐる考察もお願いしました。

 

元号を支える「新代あらたよ」という意識

 元号にかかわって、さらに注意すべきことがある。それは元号を支える意識の問題である。今回の改元に際しても、「新しい時代」になったという感想がしばしば見られた。『万葉集』では、これを「新代」と呼ぶ。持統天皇の時代(六九〇〜九七)、ふじわらのみやの造営に従事したえきみん(藤原宮造営のために徴発された民)が歌ったとされる歌が『万葉集』に残されている。「藤原宮のえのたみの歌」(巻一・五〇)である。実際の作者は役民ではなく、宮廷歌人であったようだが、その中に、次のような一節がある。

が造る 日のかどに 知らぬ国 より 我が国は とこに成らむ ふみへる あやしき亀も あらたと いづみの川に……
〈口語訳〉
この自分が造営する日の皇子の宮廷には、異域の知らない国も帰服させ寄せて来るようにという巨勢道こせぢから、我が国は永遠に栄える常世とこよの国になるだろうという瑞祥ずいしょうの文字を甲羅に負った不思議な亀も、新たな御代の始まりを祝福に出て来るという「出づ」の名をもつ泉いずみの川に……

 当時は、しようずいの出現によって改元することがしばしばあった。この歌の歌われた持統天皇の時代に、そうした事実があったかどうかは不明だが、奈良時代には、不思議な亀の出現によって、「霊亀(七一五〜一七)」「じん(七二四〜二九)」の年号に改められたこともあった。それゆえ、持統朝にも、吉祥の文字を甲羅に背負った亀は本当に現れたのかもしれない。ここでは、そうした亀の出現が「新代」の始まりとして意識されている。

 それでは、「新代」の「代」=〈ヨ〉とは何か。〈ヨ〉にあたる文字を見ていくと、他に「世・寿・齢(寿命)」などがある。中で、〈ヨ〉の意義をもっともよく示すのは「」である。竹のふしがわかりやすいが、ふしと節の間の空間も〈ヨ〉と呼ばれた。『竹取物語』で、かぐや姫を発見したあと、たけとりのおきなが「よごとに黄金こがねある竹」を見つけたとある。その「よ」も、この〈ヨ(節)〉である。そこから、〈ヨ〉が前後にしきり(区分)をもつ空間であることが確かめられる。「代・世・寿・齢」も、これと同じである。これらは、しばしば時間と考えられがちだが、「節」がそうであるように、空間性をもあわせもつ。つまり時空である。

 さらに大事なのは、この〈ヨ〉には、〈ヨ〉を生成・維持させる力があると信じられていたことである。〈ヨ〉の時空を支える生命力といってもよい。その生命力は、〈ヨ〉の推移につれて、次第に衰えてくる。「寿・齢(寿命)」を考えると、そのことは明らかだろう。生まれてから死ぬまでが寿命だが、生命力は徐々に衰えていく。「代・世」についても同様である。「代・世」の時空を支える生命力もまた徐々に減衰していく。それを立て直すのが「世直し」である。改元はまさにその世直しのために行われた。「新代」の誕生によって、「代・世」は生き生きとした生命力をもって生まれ変わる。まさにリセットである。改元の意義はそこにある。

 今回の改元で、「新しい時代」になったことを人びとが感じたというのは、この「新代」の意識による(〈ヨ〉については、多田一臣編『万葉語誌』(筑摩選書)に詳しい)。元号を支えるこのような意識のありかたは、西暦のように、ただひたすら未来(終末?)に向けて突き進むような時間意識(時空意識ではあるまい)とは、おそらく決定的に違っている(なお、このようなリセットの意識は、この国土に積もり積もったあらゆるつみけがれを、水の力によって半年ごとに除却する「おおはらえ」の儀礼にも見られる)。

関連書籍

一臣, 多田

万葉語誌 (筑摩選書)

筑摩書房

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