万葉樵話――万葉こぼれ話

第一回 新元号「令和」と『万葉集』

新元号「令和」の典拠は『万葉集』。これを機会に『万葉集』に対する関心が高まっています。そこで、『万葉集』の研究で多くの著書がある東京大学名誉教授の多田一臣先生に『万葉集』の新しい知見や魅力について存分に語っていただきます。もちろん「令和」をめぐる考察もお願いしました。

大伴旅人の境遇から「梅花の歌三十二首」を考察する

 元号についての話が長くなったが、ふたたび「梅花の歌三十二首」に戻る。ここで、大事なことを述べておくと、当時の梅はすべて白梅であった。しかも、梅は大陸から渡来した植物であり、初めから鑑賞を目的として貴族の庭園に植えられた。もともと山野に自生していた桜とは、そこが大きく違う。紅梅が現れるのは、平安時代以降のことになる。「梅花の歌」の序に「梅はきやうぜんひらき(梅は鏡の前の白粉おしろいのごとくに花開き)」とあるのも、それが白梅だからである。「梅花の歌」の中には、花の白さを雪と重ねて歌ったものもある。一例として、宴の主人あるじである大伴旅人の歌を掲げておこう。

そのに梅の花散るひさかたのあめより雪の流れるかも
(巻五・八二二)
〈口語訳〉
わが庭に梅の花が散る。遠く無限の空の彼方から雪が流れて来るのか。

 白梅がはらはらと散るさまを、流れるように空から降って来る雪に見立てたもので、こうした趣向は漢詩に類例が多い。

 もう一首、やまのうえのおく(六六〇―七三三?)の歌も紹介しておきたい。

春さればまづ咲くの梅の花ひとり見つつやはるくらさむ
(巻五・八一八)
〈口語訳〉
春になると最初に咲くわが家の梅の花、私一人でながめつつ春の日を暮らしてよいものだろうか。

 憶良は、当時ちくぜんのかみだった。ここで詳しく触れることはできないが、筑紫の地での憶良と旅人の出会いは、『万葉集』の表現世界を大きく広げるような意味をもった。そこで、この歌だが、「独り見つつや」の「や」を反語と見るか詠嘆と見るかで、理解が二つに分かれている。私見では、これを反語と見て、梅の花を共に享受しようとする、出席者一同への誘い歌と捉える。この場合の「屋戸」は旅人邸で、この歌は旅人の立場で詠じたものらしい。「や」を詠嘆と見て「わが家(憶良の自邸)で独りながめ暮らすとしようか」とする理解もありうるが、これではものそのものであり、宴の場の論理から見てやはり不適切だろう。

「梅花の歌」について、さらに一言だけ付け加えておけば、旅人が大宰帥に任じられたのは、左遷人事の結果としてだった。こうみよう(七〇一〜六〇)の立后問題がその背景にある。立后に強硬に反対するながやのおおきみ(六八四?〜七二九)の失脚をはかるため、藤原氏は陰謀をめぐらしつつあったが、その際、長屋王に近い立場の保守派の長老、旅人の存在は大いに目障りだったのだろう。それゆえ、旅人は大宰帥に左遷されることになった。神亀四(七二七)年のことである。当時、旅人は六十三歳。生きてふたたび都に帰れるかどうかの不安を抱えながらの筑紫下向だった。その翌年、旅人は同道した愛妻おおともの郎女いらつめ(?〜七二八)を任地で亡くしている。長屋王の変の翌年、天平二(七三〇)年の暮、大納言に任じられた旅人は、やっと都に戻ることができた。「梅花の歌」のうたげが催されたのは、その年の正月のことである。そこで披露された歌の数々は、春の到来を寿ことほぐ祝意に充ち満ちてはいるが、その裏には時勢の推移を複雑な思いでながめる旅人の苦いまなざしがあった。そのこともまた忘れてはならないだろう。

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