漫画家入門

最終回 漫画を殺すために

ご愛読ありがとうございました。浅野いにお先生の次回作にご期待ください。

4月中旬

 土曜の夜に自宅へ戻り、パソコンのゲームで遊んでるうちに朝になったのでそのまま気を失うようにソファーで寝てしまった。
 妻に声をかけられ目を覚ますとすでに昼2時を過ぎていた。妻の息子の「子供用ケータイ」を買い替えに行くからついて来るかと聞かれたので、5分で支度をして三人で家を出た。外は随分と暖かくなっていて、僕は馬鹿の一つ覚えのようにマフラーを巻いていたが、流石に暑かったので外して鞄に入れた。いつの間にかすっかり春めいている。
 妻がたこ焼きを食べたいと言い出した。iPhoneで検索し、適当に検索で出てきた店で三人分を買い、近くの公園で食べた。すると妻の息子が「意味怖」などとネットスラングまがいの言葉を言い、都市伝説ネタを披露し出したので、ネットに弱い妻は「いみこわ?」と、意味不明といった様相だった。僕は最近見倒していたオカルト系YouTuberを妻の息子も見ているんじゃないかと内心ヒヤヒヤしたが、実際はそうではなかった。クラスでそういう話が流行っているらしい。内容は忘れた。
 予定時間通りにソフトバンクの前に着いたが、僕まで同席する理由もないので別行動することにした。近くにあるヴィレッジヴァンガードに立ち寄り、今時な感じの漫画をざっくりと確認したあと、自分の漫画が置いてあるコーナーを、目玉が裏返るほどの横目で素通りした。一人立ち読みしている男性がいたが、山積みされている自分の画集が目に入るなり、在庫が余っていることに激しく動揺し動悸が止まなかった。
 店の前の喫煙所でタバコを吸っていると声をかけられた。以前サイン会でお世話になった、ヴィレッジヴァンガードの社員さんだ。数年ぶりだったので少しだけ世間話をした。話を聞くと別のスタッフが僕が来店していることに気づき、それを伝えられて追ってきたのだという。今日はフェチ系の写真集などを買わないでおいてよかったと胸を撫で下ろした。
 近くのゲームセンターに移動し、音ゲーに興じる若い女性を眺めていると妻から「あと1時間くらいかかりそう」と連絡があった。契約に手こずっているらしい。時間を持て余した自分は、再びソフトバンクの店前に訪れてみると、彼女の息子が一人で、1階にディスプレイされたスマホのモニタを暇そうにじっと見ていたので、声をかけて連れ出すことにした。
 これまで外で妻の息子と二人きりになることはあまりなかった。自分の外見の怪しさも手伝って子供を誘拐しているような気分になる。しかし実際連れ出したところでやることも行くべきところもない。妻の息子もやや気まずそうな表情だ。僕は思いついてiPhoneを取り出し、「Pokemon Go」を起動した。スタッフたちの間で今頃流行っていて、僕も先月から遊んでいたのだ。画面を確認すると、歩いて5分ほどのところでレイドバトルという時間制限付きのボス戦がちょうど始まるタイミングだったので、二人でそこに向かうことにした。
 バトルは20人1チームでボスに挑む。駅から少し外れた住宅地であるにもかかわらず、開始すぐに20人が集まった。つまりこの周辺に20人のプレイヤーがいることになるのだが、たしかに見回すと張り込み中の警官のように電柱の影や塀の向こうに人影が見え隠れていて異様だった。僕もその異様に混ざろうと裏路地に入り、妻の息子と地面に腰を下ろした。
 バトル開始後、レベルの低い僕は役立たずだったが、チームはボスに圧勝した。勝利の後はゲットチャレンジだ。与えられたボールの数だけチャンスがあるのだが、あえなく捕獲できないままボールを使い切り、僕と妻の息子は無言になった。別にいいところを見せてやろうという気負いもなかったが、特に妻の息子からのフォローもなかった。僕が「お母さんのところに帰ろうか」と言うと、妻の息子は「うん」と答えた。今だに僕は「浅野さん」と呼ばれているが、この距離感は永遠に縮まりそうにない。

 日が暮れ、妻の息子を車で父親のところへ送り、僕らは自宅に戻った。僕が狭い自室でタバコを吸っていると、妻も部屋に入ってきてタバコを吸い出した。健康を気にかける妻がタバコを吸うのはもちろんやめたほうがいいと思うのだが、ヘビースモーカーの自分がどう声をかけるべきなのか今だにわからない。
 しばらくして仕事の話になった。妻は今まさに連載中なので、断然僕より忙しいはずだ。しかしあまり内容に突っ込んだ話はしない。ただいつもの「これからどうしようね」といった漠然とした話だ。最近こんな話ばかりだ。どうするもなにも今やるべきことをやるしかないのだが、もっと先々のことだ。
「もう他人に興味がないのかもしれない」と妻が言う。それは僕も同様だ。漫画の本質が「人間を描くこと」だとするならば、他人への興味の喪失は致命的だ。こと青年漫画においては、世間一般への批評的な目線を求められてきた。しかし差別や偏見を許さない最近の世相の、「それぞれの価値観を尊重する」というスタンスをとろうとすると、「人は人」と聞き分けばかりが良くなってしまう。それは興味を失ったことと同義だ。自分と他人を相対化して疑問や違和感を持つことが大きなお世話になってしまった昨今、かといって血眼になりながら社会悪ばかり探そうとするとme too漫画しか描けなくなってしまう。それでも必死に読者との興味の接点を見つけなければならないのが漫画家の仕事なのだが、このところずっとそういった不安が首をもたげている。
 執着が必要だ。誰に何と言われようと、相手にされずとも、自分はこれで正しいと思える鈍感さも。悶々と僕がそんなことを考えていると妻が唐突に「エロ漫画描けばいいやん」と言い出した。「なんで」と僕が聞くと、「だっておまんこ好きやん」と身も蓋もないことを言う。身も蓋もないし、それが正解だと思ったので、僕は「すごいね」としか言えなかった。

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