漫画家入門

最終回 漫画を殺すために

ご愛読ありがとうございました。浅野いにお先生の次回作にご期待ください。

4月下旬

 スタッフが来る頻度が減ったので一人でいる時間が多くなった。ならばさぞ仕事に集中できるだろうと考えていたが、実際は寝てばかりいる。昼まで寝ているのはいままでどおりだが、予定がなければ夕方も寝ているし、夜も寝ている。寝ながら考えている。漠然とした大きな変化の兆しを前に、自分の立ち振る舞いはどうあるべきなのか。やるべき仕事はあるにはあるが、それよりも考えるべきことが山積してる、という焦燥感ばかりが積もる。
 なんとはなしに献本された漫画雑誌をパラパラとめくってみると、いずれも漫画としてはよくできているとわかるのだが全然頭に入ってこない。漫画家として大変に矛盾をはらんでいるが、年々フィクションに対する拒否感が強まっている。漫画より現実の方が俄然面白いのだ。たとえそれが寝てばかりの生活だとしても。

 自分がデビューした90年代、漫画を描いていることは「恥ずかしいこと」だった。オタクという言葉がまだ新鮮に響いていた頃、漫画を読むことは「ダサい」といった認識が強く、そして実際、漫画は古臭かった。少なくとも高校生だった自分の周りで漫画の話をしている者はほとんどいなかった。しかし当時はリアリズムを武器に漫画で漫画を越えようとしている一部の過激な漫画家たちがいて、もちろん自分が同じステージに立てるわけはないのだけれど、一応は自分もそれらに憧れて漫画を描き始めたはずなのだ。それこそ誰にも悟られないようにコソコソと原稿を描き、カラオケやプリクラに興じるコギャルたちを横目に一人出版社へ持ち込みをしていた。漫画に興味のない同世代にも届くポテンシャルが漫画にはある。とにかく当時、僕は可能性しか感じなかった。
 2000年代になって状況が一変した。オタク文化が市民権を得たことによって、それまで「ダサい」とされていたものが一躍「トレンド」になった。極から極へ、その振り子の勢いは凄まじい。それに伴って質の高いアニメも作られ、相互作用で漫画はアニメ的になっていった。絵柄は統一規格のように集約していき、それによって一気に平均レベルが上がった。自分の中で切り離されていた漫画とアニメがニアイコールになったと感じたのもこの頃だ。しかし漫画の中身の表現方法に大きな変化はない。一例を挙げるなら、なんで漫画のキャラの目はあんなに大きいのか。誰も答えを出してくれない。相変わらずヘンテコだ。ツッコミどころは無数にある。
 2010年代になってその傾向はさらに深まった。漫画は作家の独占的なものではなく、読者とともに盛り上げるコンテンツになった。漫画的なキャラが、漫画的な役回りを演じきることを「尊ぶ」ようになった。偶像にリアリティは不要だ。みんなが信じればそれはそこに存在する。そんな感性に疑問を投げかけることは無粋である。人は人。他人の趣味にとやかく言うものじゃないし、無理に合わせることもない。
 タイトルだけで内容が把握できる親切さ。中身は徹底した気遣いで読者を裏切らないし傷つけない。そして同じような内容であっても次から次へと新鮮な気持ち消費できてしまう嗜好性。全てがそうとは言わないが、特にキャラクター重視した漫画の構造だけで言えば、アダルトビデオと同じだ。これは全く否定的な意味ではなくて、用途は違えどアダルトビデオのように娯楽を超えた生活必需品にまで漫画が昇華したことの現れなのだと思っている。
 とにかく漫画は上手に嘘をつくことを求められる。漫画だから許されている表現が多々ある。よく言えば様式美、悪く言えば馴れ合いだ。好意的な人はそれを「漫画ならではの良さ」と言ってくれる。つまり「漫画は漫画でいい」という優しい世の中だ。劣等感を覆すためにいきり立っていたはずの自分はすっかり中折れした気分だが、いつの間にか確固とした文化産業として定着していたのだ。漫画は文化だ。疑う必要はない。いつしか僕も「漫画らしさ」に依拠したものを描くようになり、おんぶにだっこで今も生活している。
 漫画を読むことを格好悪いという人はもはやほとんどいないだろう。その反面、漫画は漫画好きのために作られた専門性の高いもので、興味のない人にとってはより興味のないものになってしまった感がある。漫画業界にいると錯覚しがちだが、実際はほとんどの人が漫画を必要としていない人生を送っている。ないならないで代替可能な他の娯楽に溢れている。ならば本当に漫画市場を必要としているのは出版社と漫画家自身なのかもしれない。
 いま現在も漫画家志望の若者は多くいる。その多くは当然、漫画好きの若者たちだ。表現のアウトプットとして後付けで漫画を選んだわけではなく、生粋の「漫画好き」だ。しかし漫画好きが漫画好きのために描く、実はそれはあまり自由じゃない。物語で魅せるメディアの中では漫画はもとから制限が多い媒体であるゆえに、ドメスティックで独特な作法を育んできた。ずいぶん昔に表現は頭打ちになっていて、それ以降は基本的に古典の焼き直しだ。そして読者も作者もそれを好んでいる。映像化までこぎつければ作品としてひとまずの成功かもしれないが、漫画の存在意義が映像化のプレゼン用のプロットがわりであるとは思いたくない。なぜならそれは漫画が不完全なものであることを認めることになってしまうからなのだが、映像化されて悔しがっている人を僕はあまり聞いたことがない。
 漫画制作は低コストだから低リスク。だから作家個人の横暴も許される。それが漫画に残された最後の利点だと思っている。しかし作法から外れたものは好奇の目で注目をされることがあっても、すでに最適解が示されている以上スタンダードにはならないだろう。もし才能に溢れて表現の出所を探している若者がいるとしたら、今あえて漫画を選ぶ理由はないだろう。つまり緩やかに業界は縮小してゆく。
 あと数年はこの流行が続くと思う。そのあとは何も分からない。子供たちは旧態然としたこの漫画文化を見限ってしまうかもしれない。もしくは伝統文化として今以上に権威的になったとしたら、誰がそれを間抜けと言ってくれるのだろうか。
 多分僕は何も言わない。生活は続くからだ。今は道具が揃っているから漫画を描いているが、環境が変わればもちろん別の仕事をする。それ以上考える必要はないのかもしれない。元をたどれば物を組み立てるのが好きだった子供が、そのまま大きくなっただけだ。そもそも自分は自分を漫画家だと思っていない。人格もない。ただ物を作る手だ。
 正確には漫画家という職業は存在しない。人がそう呼ぶから便宜的に自称しているだけ。ただの人。ただの個人事業主だ。人間らしい不出来や誤りもある。無駄や無意味もたくさんある。人の人生は漫画のようにはいかない。漫画のようにはいかないからこそ面白い。時としてその人が描く漫画よりその本人の方が僕にとっては魅力的だし、もっとありのまま自分のことを描けばいいのにと思ってしまうが、しかしそういったことを描くのがとことん不得手な媒体なのだ。漫画というのは。

 いつだったか才能のある若い漫画家さんに「浅野さんはなんで漫画を描いてるんですか?」と聞かれたことがある。僕が「漫画を殺すために」と答えると、「浅野さんらしいですね」と言われた。一応冗談ぽく言ったつもりだが、ただの本気だった。そんな不良漫画家も実在する。よくこれが20年も続いたものだと思う。しかし僕は負けてしまった。だから今はただただ眠い。それでも残された力で必死に体を起こし机に向かう。そのときに自分がやるべきことはなんだ。

 きっと日記なんか書いてる場合じゃなかったのだ。

関連書籍

こちらあみ子

浅野 いにお

漫画家入門

筑摩書房

  • amazonで購入
  • hontoで購入
  • 楽天ブックスで購入
  • 紀伊国屋書店で購入
  • セブンネットショッピングで購入