漫画家入門

最終回 漫画を殺すために

ご愛読ありがとうございました。浅野いにお先生の次回作にご期待ください。


4月26日

 ゆかちゃんが来た。10日ほど空いていたが特に変わりはないようだ。髪が金髪からアッシュ系の茶色になっていた。襟足をめくると金髪と茶髪と黒髪が混在していたので、「雑種の犬みたいだな」と僕が言うと、ゆかちゃんは「前は病気の猿みたいだったから犬に昇格した」とよくわからない喜び方をした。
 今日は雨だ。この数日初夏を思わせるような陽気でTシャツ一枚でも汗ばんでいたのも一転、二人して「寒い寒い」と年寄りのように身を縮めていた。
 先週に読み切りを1本描き終えた。本来なら早く次の単行本作業に取り掛からねばならない。しかしここ数日間、ずっとこの日記に時間を取られている。全然筆が進まない。僕はそれを全部ゆかちゃんのせいにしようとしているのだが、とんだはた迷惑だろう。それでも改めて「なんかない?」と僕が食い下がると、ゆかちゃんがこんなことを言い出した。

「浅野さん、子供作るつもりはないんですか?」
「うーん、ないよ」
「浅野さんの性格的に、今はいらないんでしょうけど、いざ作れないってわかったら急に欲しがりそう」
「あー」
「今の奥さんとはないでしょうけど。一応精子を冷凍保存しといたらいいんじゃないですか。その安心があれば今の浅野さんの緊迫した感じが和らぐと思う」

 なんか核心を突かれたような気がしたので僕は適当に話を濁して終わらせた。
 そうこうしてるうちに「おいっす」と言いながら冨田くんがやってきた。冨田くんには年明けからずっと新宿の駅前を3DCGで作ってもらっている。何に使うのかまだ決まってないが、とりあえず作ってもらっている。用途は不明だが、よくできた駅前広場を3D上でぐるぐると回して二人で「おおー」などと言ってはしゃいだ。今日は差し迫った締め切りもないので、ゆかちゃんには背景やデータの整理などをしてもらっていた。漫画の仕事は何一つ手をつけていない。うなぎは今日も白目をむいて寝ている。
 僕がモニターに映ったWordの前で凝り固まっているうちに終電の時間になっていた。僕がゆかちゃんに「車で送って行くよ」と言うと、「じゃあゲームしていいですか」と言ってソファーを陣取り、プレステの電源を入れた。もう半年ほど「ドラクエビルダーズ」というゲームでゆかちゃんは遊んでいる。ストーリーとは関係ない花壇を永遠に作り続けるなど、一向にエンディングを迎える気配がない。しばらく僕はそれを横目にテキストを打ったり消したりしていたが、今日発売の「Days Gone」というゾンビゲームが届いていたことを思い出し、ソファーに移動してコントローラーを譲ってもらった。しばらくして仕事を終えた冨田くんもやってきて、三人でソファーに横並びになり、ゾンビに追いかけられる主人公を眺めていた。
 しばらくして二人とも飽きたのかスマホをいじり出した。僕もきりのいいところでゲームを中断し、同じくiPhoneを手に取った。しばらく三人とも無言でタバコを吸っていたが、それぞれのスマホの画面を確認すると、僕はエゴサーチ、冨田くんはPokemon Go、ゆかちゃんは炎上中のツイッターアカウントのチェックと言った具合で、さすがにこの無駄な時間の過ごし方を腹に据えかねた僕は「もう帰ろう」と言って立ち上がった。午前3時を過ぎていた。
 帰り支度の途中で冨田くんが「こんなことあえて言うのもアレなんですけど」と言うので何かと思って聞き返してみると、「今日が平成最後の冨田くんなんですけど」などと言うので、僕は心の底から知らんがな、と思った。
 玄関のドアを開け、暗闇に手を差し出すとまだ雨はやんでいない。冨田くんは傘をささずに自転車にまたがり、そのまま路地の曲がり角に消えていった。玄関前に僕とゆかちゃんだけが残された。二人で狭い車に乗り込み、キーを挿しエンジンをかけた。そういえば雨の日にこの車を運転するのはまだ二度目だ。僕は「あれ?」などと言いながら失念していたワイパーの位置を手で探る。雨の日の運転は不安だ。「最低でも週に1回くらいはエンジンをかけてください」と言われていた古い車なのにも関わらず、もう3週間くらい放ったらかしだった。走っている途中で故障したりしないだろうかと一瞬心配になった。すっかり自分の生活から車という要素が消えてしまっていた。そういえば自動車教習所に通いだしたのはちょうど1年前の今頃。遠い昔のことのようだ。
 のろのろと走り出した車は、深夜の寝静まった路地を抜けてゆく。太い道路に差し掛かると、朝に向けてスピードを上げたトラックが右から左へ、立て続けに何台も通り過ぎて行った。まだ夜が明ける気配はない。重いハンドルを左に切りゆっくりと車道へ出ると、雨に濡れた路面にガソリンスタンドの煌々とした明かりが反射して眩しい。方々の街灯や信号の光が乱反射し、停止線を見失いそうになった自分は強くハンドルを握った。

 僕が「事故るかも」と言うと、ゆかちゃんは「これでようやく私も浅野さんも死ねますね」と言った。二人で力なく笑った。
 光と水と夜が混ざった世界は万華鏡の中のようだった。僕はアクセルを踏み、不安定な光彩の中を練馬方面へ直進した。

 

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