高橋 久美子

第12回
サトマリ

エッセイ集『いっぴき』(ちくま文庫)も絶好調、また絵本翻訳でも注目を集める作家・作詞家の高橋久美子さんの連載コーナー。彼女にしか紡ぐことのできない言葉たちで、日々の生活を鮮やかにエッセイや小説に仕立てます。〈作家・高橋久美子〉の新しいスタートを告げる連載は毎月第4水曜日の更新になります。


 先にサトマリを見つけたのはやっぱり百合子だった。長津田での打ち合わせを終えて駅に向かおうと歩き出した途端に雨が降り出し、慌ててローソンに飛び込んだときだ。会社帰りの人でごった返す店内は、お弁当やサンドイッチの主要商品は既にスッカスカだ。私は意味もなく店内を一周したあと大小どっちを買うか傘を見比べていた。
 トイレから出てきた百合子が駆け寄ってきて私の耳元に囁く。まったくどうして百合子はこう芸能人を見つけるのが上手いんだろう。元モデルのなんちゃらだ、とか、舞台俳優の誰それだとか、大食いタレントの人の夫だとか、並んで歩いていると必ず誰かを見つけた。それも、よく見ても芸能人かどうかわからない人を片っ端から見つけるのだ。何個眼がついているんだろうかと思う。会社への行き帰り、毎日ほぼ同じ道を通っても私とは見えてる景色が違うんだろうな。
「うそ、あれ本当にサトマリかな?」
 六十センチのビニール傘を持ったまま、私は小声で百合子に言った。
「絶対そうでしょ。見てみ、あんな顔ちっちゃい人間いないよ?」
 サトマリらしき人は、黒いキャップを目深にかぶり、マスクと眼鏡で完全に変装していたので、周りの人も気づいてなかった。ていうか、気づかれるほど有名かと言われると知る人ぞ知るかも。顔がすっごく小さいから、殆どマスクから皮膚が出てなくて、本人かどうか判断するすべがない。黒い細身のパンツに、ビルケンのサンダル、グレーのパーカー、完全オフ仕様だと思われる。ほっそいなあ。思ってたよりちっちゃい。華奢なのに出るとこは出てるし、すごいわ。私達は、雑誌を眺めているサトマリに気づかれないよう、店内をうろうろした。
「あんた、サトマリの大ファンじゃん。本とか買ってなかった?」
「うん、実は今も、ほら」
 私は鞄から料理本を出して見せた。発売日に買って、行き帰りの電車で読んだり眺めたりしている。開いただけで、癒やされる上、お腹も脳みそも本来の健やかさへ矯正される料理本だ。サトマリは、美人すぎる料理研究家とか言われて三年前にメディアに出てくるようになった。「美人すぎる」みたいな枕詞ださいなあ、どうせすぐ消えるんだろうなと最初は思っていたんだけど、年齢が同じ上に誕生日も三日違いだったから妙なシンパシーを感じた。それに本人は全然そんな枕詞に惑わされない料理一直線なので、その女前な姿が、逆に若い女子たちに支持されはじめた。インスタで毎日アップするマクロビ料理は、簡単そうなのになかなか真似できなかった。蒸しただけの野菜なのに、何でここまで違うのかと思わせるくらいにセンスよく盛り付けられていたりだとか、紹介されるドレッシングがシンプルなのに一味違っていたり。基本はオリーブオイル、塩、胡椒、ビネガーくらいで、サトマリの料理にはあまり難しい調味料は出てこない。時間もかからない。なるべく素材をそのままに。「自然を自然のままにいただく」がトレンド入りしちゃうくらいにオーガニックを推奨している。全国を飛び回ってこだわり抜いた野菜や穀物を選ぶのが趣味だと書いていた。奥多摩や茨城の農家さんを訪ね歩いて合鴨農法で米を育てていたりもする本格派であった。
 同じようにはできないけど、私もちょっとずつサトマリに近づきたい。ライフスタイルを書いたエッセイ本ももちろん全部読んだ。食は体にも精神にも繫がる人間の根幹であることを、実践をもってサトマリは説いた。
 ああ、まだサインを貰いに行くと決まったわけでもないのに、心臓がばくばくしてきた。
「ほら、帰っちゃうよ。早く行ってきなよ」
 百合子が私の背中を押す。
 そうだよね、行かなきゃ。私がじりじりと雑誌コーナーへ動き出したとき、サトマリが雑誌を棚に戻すと、きょろきょろと辺りを見渡した。そしてコンビニの青いカゴを持ち別の場所に移動しはじめたのだ。私は驚いてアイスを見るふりをした。堂々と行けばいいのに何で隠れてしまうんだろう。百合子ならさっさと行っているだろうに、私はいつもこうだ。
 いつの間にか夜も九時を過ぎ、店内には自分たち二人とサトマリだけになっていた。私は意を決して、本を持ってサトマリの行った方へ進んだ。
「ちょっと待ちな。今まずいよ」
 百合子が私の腕を引き止めた。
「へ? なんでよ。帰っちゃうでしょう」
「ばか、あの子の手元見なよ。いや、見ない方がいいか……」
 私達は隣のレーンから、まるで刑事もののドラマみたいに顔を半分だけ出す。ロングの黒髪で表情は隠れているが、サトマリの白い手は、芋の世界で最も罪深き存在であろう、例のオレンジ色の袋を持っていた。その隣に並んだ、オリーブオイルで揚げたものと数秒迷ったが、左手に持った見慣れたポテトチップスの方を確かに、確かに青いカゴの中に入れた。その後も、次々にスナック菓子をカゴに放り込む。チョコレートも、それから多分ってか絶対無添加じゃない菓子パンだって。動作を終えると、足早にレジに向かいカゴをカウンターに置いた。ついでにレジ前に置かれた一〇五円のダブルシューを一つ手に取り、会計のはじまったカゴに入れた。
 うそだ、うそだ、うそだ。きっと、これは夢。だってあれ全部私がずっと我慢してきたもの。サトマリになりたくて、全部全部断ったものたち。朝は白湯と旬の果物だけにして、コーヒーは豆から買うようになったし、去年の誕生日には未来の自分のために発芽玄米の炊飯器を買った。六万もした。だって、私は特別じゃないんだから自分で特別にするしかないじゃない。三十歳目前にして、周りとはちょっと違う道を進みたいじゃない。
「二千三百一五円です」
 随分買ったもんだ。お釣りをもらうと、サトマリは袋を抱えてそそくさと外へ出ていこうとした。ほんの三分間で世界が崩れ落ちる音がした。ああ、気分悪い。私は、本を持ったまま立ち尽くした。自動ドアが開いたとき、多分車の鍵を取り出したサトマリのパンツのポケットから、折り畳まれた紙が落ちた。私は、咄嗟に紙きれを拾うと、コンビニの駐車場へ走った。
「すみません、何か落としましたよ」
 青く光る看板の下、サトマリは私の目を見ようとしなかった。深くかぶった帽子を右手でさらに引き下げると、一瞬私の差し出した手のひらを見て、小さな声で言った。
「それ、私のじゃないです」
 甘いシャンプーの香りがした。サトマリは彼女の体型には似合わない、黒い強そうな車に乗り込むと、エンジンをかけて走り去った。
 手のひらに乗っかった赤い紙切れを広げてみると、そこには、『チーズバーガーセット半額』と書かれている。どうやら常習犯らしい。なかなかストレス社会とは断ち切れない食べ物である。入り口の辺りで傘を二つもってタバコを吸っている百合子に
「これあげるよ」
 と手渡した。
「やったね。明日までじゃん。マックいこーっと」
 百合子は、半分とれかかったまつ毛を器用に外しゴミ箱に捨てると、腹を抱えて笑いだした。
「何よ、笑わないでよ。悲しくなるじゃん」
「うはははははー。ヒー、笑わずにいられないじゃん。なに今の流れ。マジ奇跡的悪夢じゃね? 腹いてー。だって、あんたの崇拝してた女、噓ついてマック行ってたんだよ。マクロビでもなんでもないじゃん。最高かよ」
 私は、鞄から本を取り出した。いつもの自分なら、これをこのままゴミ箱に突っ込むんだ。それで、百合子といっしょに悪口いっぱい言って、マックに行ってやけ食いするんだ。私は取り出した本をゴミ箱の大きく開いた口元まで持っていったけど、入れられなかった。そのまま鞄にしまった。
「捨てないんだ?」
「うん、捨てない。だってこの料理本は悪くないでしょう」
「騙されてたってのに? これだって自分で作ってないかもしんないんだよ。毎日コンビニ弁当かもしんないよ」
「……」
 サトマリは、苦しんでいるに違いない。なりたい自分と現実の自分のギャップに挟まれて。全然顔とか体型は違うけど、私と同じだ。来年で三十歳だし、仕事も派遣のままで、恋人もいないし、特に誇れるものなんて何もない。私の特別はどこにもない、他に代わりはいくらでもいる。
 でもサトマリは私に違う世界を見せてくれた。なりたい自分を見つけてくれた。物への価値観だって変わった。食べ物の成分表を生まれて初めて見たし、出汁も初めて自分で取るようになった。野菜に産地や時期があることを知った。それだけのことだけど、見える世界も生活の基準もまるで変わった。料理をしていると、嫌なことを忘れられた。生産者のことを想像すると心が温かくなった。無心に野菜を切って、蒸して、焼いて、好きな器に盛って。自分の心が開放されてちょっとずつ自分自身の原材料が見えてくるようになった。それもこれも全部サトマリのおかげだ。だから腹立つけどこの本は捨てない。
「百合子、私マクロビも料理もやめないよ。だって好きなんだもん。今度こそは、ちょっと変われそうなんだよね」
「へー。ま、サトマリの分も頑張ってくださいな」
 百合子はにたにたしながら、タバコを灰皿に押し付けた。雨がすっかりやんでしまっていた。六十センチのビニール傘を持って私達は駅の方へ歩いていった。駅の向こうにマックの赤い看板が満月と同じ色で輝いていた。
 

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