ちくま学芸文庫

『書き換えられた聖書』文庫版解説

6月刊のちくま学芸文庫『書き換えられた聖書』(バート・D・アーマン著、松田和也訳)より、筒井賢治氏による文庫版解説を公開します。刊行後即重版となった本書『書き換えられた聖書』。その特徴や魅力、さらには読む際の注意点などについても触れられています。ぜひご一読ください。

 この本の「はじめに」はかなり長い。内容は著者の学問的な半生伝で、過去の自分と決別するまでを語ることによって、直接的また間接的に、過去の自分と同じような考え方をもつ現在の読者に対して一種の宣戦布告を行っている。原著のMisquoting Jesusという表題も挑発的だ。イエスの言葉がどう「誤引用」されたのかという話は、厳密な意味では全く本文に出てこないし――なぜなら誤引用であることを証明するには、あらかじめイエスの本当の発言を知っていなければならず、著者がイエスの言葉を聞いてきたとかいうような話は見つからない――、イエスの発言として伝えられていたものを改変するという意味でこの言葉が使えなくはないにせよ、そもそも、これはイエスだけを扱う本ではない。
 とはいえ、この挑発が本当に挑発なのかは別の問題で、私は、むしろ商業的な狙いを感じる。内容に即した「聖書を改変した人々とその理由の背後にある物語」(The Story Behind Who Changed the Bible and Why)という意味の副題を添えたのは出版倫理への配慮ともとれるし、何より、「イエスさまの言葉が間違って引用された⁈」と思ってこの本を買ってしまう人が、原著の出版国であるアメリカ合衆国では特に多そうだ。つまり、挑発に乗る人たちだ。実際、この商業的な作戦は成功したようで、この本に反駁するための単行本まで出版されているらしい。この本への学問的な「マジレス」なのか、それとも、この本の売り上げを見ての便乗商売なのか、私は知らないが。
 挑発やマーケティングに乗らずにこの本に向き合いたい人には、終章をまず読んでみることをお勧めしたい。この本のコンセプトがうまくまとめられている。要するに扱うテーマは2つ、新約聖書を構成する各文書の写本伝承、そして成立事情である。分かりやすいところをひとつ引用する。

私たちが実際に手にしている新約聖書なるものは、人間の手で、つまりそれを伝承した書記たちの手で造られたものなのだった。それから私は、たんに書記たちが複製したテキストだけでなく、オリジナルのテキストそのものもきわめて人間的な書物だと考えるようになった。これは、十代後半の、できたてホヤホヤの「再生派」キリスト教徒だった頃の私の聖書観とは全く相容れないものだ。(340-341ページ)

「まえがき」における半生伝との関連にも触れられており、著者自身によるこの本の要約といってもいいような文だと思う。
 写本伝承の話は、新約聖書に限られたことではなく、印刷術が普及する以前、文書が手書きで伝承されていた時代に成立した文献すべてにあてはまる。手書きで文を写すとほぼ必ず誤りが生じる。その写しがマスター写本となって手書きの対象になると、すでにあった誤りの上に新たな誤りが加わる。古代の作家の直筆原稿が現在まで残っているケースはないので救いようがないように見えるが、写本が複数残っていれば積み重ねてきた誤写も違うので、相互を比較することで誤りでない方の伝承を選択し、可能な限り、直筆原稿を再現することができる。
 これが新約聖書に限らない普遍的な方法論であることに言及がないのは不思議に思えるが、新約聖書ならではの特殊事情があることもまた事実だ。主として鑑賞対象であった文学作品や、主として学習対象や研究対象であった哲学文書などとは違い、教会の現場で使われ続けてきた宗教文書である新約聖書には、意図的な誤り、というと変だが、マスター写本を正確に筆写していないという点では誤りだけれども、そこに何らかの意図が想定されるという写し、つまりテキスト改変が頻出する。
 この本では6章と7章に具体的な話が集められている。私の見たところ、誰でも納得できるだろうという論理から、挑発目的なのかなと感じられる論理まで、さまざまである。ただ、こうした議論に参加するためには翻訳を読むだけではだめで、新約聖書ギリシア語原典の校訂本の扱いに精通している必要がある。それと無縁な読者がこの本を鵜吞みにして「知ったかぶり」をするのは危険だということは注意しておきたい。
 成立事情については、比較検討が可能な共観福音書が中心になる。『マルコ』と(写本として現存しない)Q資料をマタイとルカが情報源として使ったという学界の通説が前提されていることは49、221、343ページを総合すると分かる(翻訳の方針に合わせ、以下、福音書という意味では『 』をつけ、その作成者という意味では括弧なしで表記する)。先の引用で「オリジナルのテキストそのものもきわめて人間的な書物だ」と表現されているのは、マタイとルカがマルコを改変したという問題で、5章に説明がある。意図的にテキストを改変するという点で、書記が時に行ったことと本質的に違いがあるのか。これが著者の問題提起だ。私もこれはなるほどと思う。
 5章でおそらく最も面白いのは『マルコ』1章41以下、「憐れんで」と「怒って」をめぐる議論だろう。校訂本とそれに基づく現代語訳は「憐れんで」、すなわち大多数の写本が伝える読みを採用しているが、著者は、ごくわずかな写本の支持しかない「怒って」が正しいのだという。癒しを請いに来た人間に対してイエスが憐れむのは当然、怒るのは奇妙だ。書記が奇妙な読みを自然な言葉に変えるのは考えられても、逆のことをするのは考えられない。したがって「怒って」がマスター写本の読みだったのだ、という論理である。
 その上で、マタイとルカが問題の言葉を自分の福音書で削除したのは、2人が見た『マルコ』には「怒って」と書いてあり、不自然なのでスルーした。仮に「憐れんで」だったらそのまま保持しただろうに、という議論を著者はたたみかける。スリリングで誘惑的だ。実際、専門的にも成立する仮説である。
 ただしこういう場合、あえて冷静な天邪鬼になる必要もある。「怒って」がマスター写本の読みだったとして、それが気に入らなかった書記が「憐れんで」に改変した――だとして、そういう書記は1人だったのだろうか、それとも何人もいたのだろうか。
 1人だったのだとしたら、「憐れんで」を伝える写本はすべてこの1人の写本に遡源することになり、「怒って」を伝える写本だけが、マスター写本の元来の読みを伝えることになる。しかし詳しく説明する余裕はないが、「怒って」を伝える写本グループの読みが特殊な場合は本当に特殊で、現代の校訂本の本文に単独で採用されることは滅多にない。なぜここが特例になり得るのだろうか。
 では何人もいたのだとする。奇妙な読みを正常化しようとする傾向は、新約聖書に限らず、写本伝承の基本的な傾向だ。だからこそ、奇妙な読みの方が本文復元で優先される。しかし、「怒って」を正常化しようとした書記が何人もいて、それぞれ自分で考えて対処したのなら、個別のさまざまな修正案が生じ、それが実行されたはずだ。それなのに「憐れんで」という1つの対案しか伝わっていないのはなぜか。
 この論点を飛ばして、「怒って」が『マルコ』の原文だと著者が断定してしまっているのはどうかと思う。この分野に慣れていない読者には気づきにくいだろうと思い、あえて専門的なコメントになってしまったが、この本を誰かが学術論文の参考文献に挙げるとか、ましてや「先行研究」だといって頼りにするとかがあってはいけない。あくまで前提知識のない(あるいは正反対の知識をもっている)一般読者のための本なのであるから。
 この本で1つだけ、ここであえて異議を唱えたいところがある。異議を唱えるのであって、間違いだと断定するのではないので誤解なきよう。むしろ議論を挑発したい気持ちだ。
 1章で展開される、キリスト教が最初から「書物の宗教」だったという話(43-44ページ)。著者はテサロニケの教会に送ったパウロの手紙を典型例として挙げる。「この手紙をすべての兄弟たちに読んで聞かせるように、私は主によって強く命じます」(『テサロニケの信徒への手紙一』5章27)。この言葉を著者は、(この手紙をパウロが)「共同体の創設者である彼自身の権威ある言葉として受け入れるように厳命しているものなのだ」と説明する(46ページ)。
 どうだろう。遠隔地にいる多数者へ意思を伝える手段として、手紙を書いて皆の前で朗読してもらう以外に何か考えられるだろうか。手紙そのものが権威ある言葉なのではなく、あくまで権威を主張したいのはパウロ自身で、手紙はその手段に過ぎないのではないだろうか。福音書にしても、マタイやルカにとって『マルコ』が神聖不可侵な権威書でなかったことは明らかで(なにしろ自由に改変を加えた)、そのルカも、前書きで、自分の作品になんらかの権威があるというような主張はまったく行っていない。
 最初期のキリスト教を「書物の宗教」と呼ぶにしても、その意味は、「書物の権威に基づく宗教」ではなく、「書物を使う宗教」だったのではないか。あくまで主役は人間であって、書物は人々をつなぐメディアに過ぎなかった ―― このように考える方が、新約聖書そのものが「人間的な書物」(先の引用を参照)だという著者の考えともうまく合致するのではないだろうか。
 もちろん新約諸文書がそれ自体に権威をもつ「聖書」になっていったことは事実だが、それは教会史という別の分野に属する。この本が主題とする各文書の写本伝承や成立事情について、学問的でスリリングなテーマに(それも見事に平易な訳文で)触れられることだけで、十分な価値があるというべきだろう。

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