ちくま新書

移民大国であるがゆえの苦悩
ちくま新書『移民大国アメリカ』

ちくま新書6月刊『移民大国アメリカ』より冒頭を公開します。トランプ現象との関連も語られています。 


トランプ現象と移民問題

 二〇一六年は、アメリカ大統領選挙の年に当たる。共和党候補となることを目指しているドナルド・トランプは、二〇一五年夏に、メキシコ経由でアメリカに入国してくる不法移民を、殺人犯であり、強姦魔だと評した。トランプは、メキシコからの不法移民流入を防ぐため、米墨(アメリカ─メキシコ)国境に万里の長城を築き、その費用をメキシコ政府に負担させるとも主張した。一連のトランプの発言は、良識ある人々の反発を招いたものの、驚くことに、共和党支持者の間でトランプに対する支持率は上昇し、トランプは共和党候補の中で最も支持を集めることになった。この事態は「トランプ現象」として注目されるようになり、移民問題が突如、二〇一六年大統領選挙の重要争点として浮上したのである。
 移民大国であるアメリカでは、近年中南米系とアジア系の移民が急増しており、二〇五〇年までには中南米系を除く白人は人口の五〇%を下回ると予測されている。近年の選挙では、民主党が移民や黒人などのマイノリティの票を確保できているのに対し、共和党はマイノリティの票をあまり獲得できていない。長期的には共和党もマイノリティの票獲得に本腰を入れる必要が出てくることもあり、当初は、二〇一六年選挙では民主、共和両党ともに移民に好意的な立場を示すようになって、移民問題は争点とならないのではないかと予想されていた。
 しかし、そこへ冒頭に述べたトランプ現象が出現した。この現象は、不法移民を批判すれば共和党支持者の支持を獲得できるとの思いを共和党候補に与え、共和党有力候補は移民問題を積極的に取り上げるようになった。
 著名な神経外科医でもあるベン・カーソンは、米墨国境地帯にフェンスを建てて、二分の一マイルごとに警備員を置くとともに、密入国斡旋人が米墨国境地帯に地下通路を作って人を入国させようとする可能性があるため、兵器を搭載したドローンを飛ばしてそれを爆撃すると宣言した。カーソンは一時期、トランプと第一位の支持率を争うまでになっていた。その一方、当初最有力候補と目されていたジェブ・ブッシュは、不法移民に寛大な態度を示していることをトランプやカーソンらから批判され続け、その支持率は大幅に低下し、やがて二〇一六年二月には大統領候補争いからの撤退を余儀なくされた。 

「中南米系=不法移民」という誤解

 アメリカには、毎年一〇〇万人程の合法移民が入国している。それに加えて、国境線を不法に越境する人々や、ビザの期限が切れた後に不法に滞在し続ける人が存在する。そのような不法滞在者の数は一〇〇〇万人を超えており、彼らに対する反発がトランプの支持増大の背景にある。
 建国期より一貫して多くの移民を受け入れてきたアメリカでは、合法移民を受け入れることについての批判はほとんどない。アメリカで議論される移民問題とは、多くの場合は不法移民をめぐる問題である。ただし、今日の不法移民の多くが中南米出身者であるため、不法移民=中南米系とのイメージが浸透してしまっている。アメリカの世論は、今日アメリカに滞在している不法移民の数は、中南米系の人口とほぼ同等と誤って認識している。また、世論調査の結果を分析すると、中南米系、移民、不法移民という用語を入れ替えても、調査結果に有意な違いは出ないという。
 このような状態では、不法移民に対する攻撃は、概念上は合法移民や中南米系に対する批判とは区別できるものの、合法移民、中南米系に対する批判ととらえられることが多い。実質的には中南米系に対する批判を意図しつつも、それが中南米系に対するヘイト・スピーチととらえられるのを避けるために、不法移民に対する批判という形をとる人も存在する。 

シリア難民拒否の動き

 二〇一五年一一月一三日にフランスでテロが発生した。同テロは、イスラム国と関係の深い人々によって行われたとされている。また、その中にはシリアからの難民を装ってEUに入った人もいると報じられた。テロリストが移民や難民の形をとって国内に流入してくる可能性は、アメリカでも二〇〇一年の九・一一テロ事件以後、しばしば議論されていた。米墨国境地帯を越えて不法移民が流入している以上、それにテロリストが紛れ込んだり、麻薬が流入したりする可能性は十分にあると指摘され、米墨国境警備は厳重化されていた。
 また、同年一二月二日にカリフォルニア州のサンバーナーディーノの障碍者支援施設で銃乱射事件が発生した。その実行犯二人がSNSでイスラム国への忠誠を表明していたことも影響し、米国内でテロとは関係のないイスラム教徒への排斥の動きが目立つようになっている。
 このような背景もあり、全米の三〇を超える州が、シリアからの難民を州内に受け入れることを拒否すると宣言した。また、トランプは一二月七日に、第二次世界大戦中に日系人の権利が大幅に制限され、強制収容されたことに言及しつつ、それと同様にイスラム教徒の入国を一時的に停止すべきと主張した。それに対して、オバマ大統領らは冷静になるようアメリカ国民に訴えかけるとともに、トランプには大統領となる資格がないと非難した。オバマは、「日本人移民と日系人を強制収容所に監禁したのは米国の最も暗い歴史の一つ」と指摘し、同じ間違いは決して繰り返さないと決意する必要があると主張している。 にもかかわらず、共和党支持者の中でトランプに対する支持は下がらず、一二月半ばに行われた各種調査では、共和党内での支持率は四割程度と、他候補を圧倒している。また、ロイター通信が一二月一一日に公表した調査では、二〇一六年の大統領選で共和党候補に投票すると回答した共和党支持者のうち、トランプの発言を侮辱的だと指摘したのは二九%に過ぎず、そう思わないと回答した人は六四%に及んでいる。共和党支持者のうち、トランプの発言が大統領就任の可能性を低下させたと回答した人の割合は四一%だった。一方、発言が侮辱的だと指摘した回答率は民主党支持者で七二%、全体で四七%となっている。

本書の構成

 アメリカは移民の国としてのアイデンティティを持っており、それを自国の強みの源泉の一つだと主張してきた。だがここへ来て、移民大国であるがゆえに直面せざるを得ない問題が大きくなっている。
 本書では、アメリカの強さと苦悩を、歴史的、制度的な背景にも言及しながら解明してみたい。
 第一章では、アメリカの移民をめぐる政治の歴史を、建国期にまで立ち返りつつ検討する。今日のアメリカが直面している諸問題が、どのような背景で発生してきたのかが明らかになるだろう。それらの問題の多くは、実は建国期から形を変えて存在してきた問題である。歴史を振り返ることで、それらの問題がどのようにして乗り越えられてきたのかを考えるヒントを与えてくれるだろう。
 第二章は、今日のアメリカの移民問題について、二〇一六年の大統領選挙と関連させながら検討する。トランプら共和党系の保守派が移民問題を積極的に取り上げるのは、オバマ政権の移民政策に対する反発という側面がある。だが、実はオバマ政権の移民政策は、共和党のロナルド・レーガン政権やジョージ・W・ブッシュ政権が採用してきた政策をモデルとしたものでもある。民主、共和両党が、ほぼ同様の移民政策をとってきたのはなぜなのか。また、マイノリティ人口が増大しているアメリカの今後の移民問題をめぐる政治はどう変容するのだろうか。このような問題を考えるための情報を提供することになる。 第三章は、移民の社会統合政策について、検討する。アメリカで移民問題がしばしば大争点となる背景には、移民の入国数を決定する連邦政府と、移民を実際に社会に統合する役割を果たす州以下の政府との間で、意向と方針にずれがあるためでもある。貧困な外国人がアメリカの社会福祉政策を活用するためにやってきて、実際に悪用しているのではないか。移民が様々な犯罪に手を染めているがために、アメリカの治安が悪化しているのではないか。このような不安が移民に対する反発の背景にある。だが、このような不安は、多くの場合、誤解である。そして、移民に対する不必要な不安が、アメリカの社会政策を貧しいものとし、それが一般のアメリカ国民のセイフティ・ネットを損なっているのである。
 第四章は、マイノリティがアメリカ政治にどのような影響を与えているかを、ロビイング活動との関係で明らかにする。ユダヤ・ロビーがアメリカの中東政策に大きな影響を及ぼしていることは、広く知られているだろう。また、キューバ系がアメリカの対キューバ政策に大きな影響を及ぼしてきたという説も、広く流布している。さらに、近年では、アメリカの地方都市で従軍慰安婦の像が建設されている背景には、コリア系ロビーの活動があると主張されることも多い。このような説には、どの程度の真実性があるのだろうか。時に国際問題につながる可能性を秘めたエスニック・ロビイングは、移民がエスニックな出自を持つ国とアメリカとに二重忠誠を持っているのではないかとの疑念を抱かせる理由にもなっている。移民受け入れがその国の外交問題にどのような影響を及ぼすのかを考える上でも、示唆を与えると言えよう。
 第五章では、マイノリティがアメリカをどのように変えているのかを整理するとともに、アメリカの移民問題が日本の移民受け入れ政策にどのような示唆を与えるかについて検討する。諸外国と比べても圧倒的な規模で少子高齢化が進んでいる日本が経済成長を維持するためには、移民の受け入れが不可欠ではないかとの議論が有力になっている。筆者も、日本は移民の受け入れについて真剣に検討せねばならない時期になっていると考えるが、移民を受け入れる際には考慮せねばならない点も多い。アメリカの移民問題への対応が、日本にどのような示唆を与えるか、問題提起を行うことが第五章の目的である。
 本書が、読者の移民問題への理解の一助となれば幸いである。

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