『ドライブイン探訪』刊行記念トーク

橋本倫史×見汐麻衣
「ただ それだけのこと」

『ドライブイン探訪』刊行記念トークイベント

2019/3/20に福岡・本のあるところajiroで行われたトークを掲載いたします。

無名な時間を書き綴る

橋本 そこで不思議なことが一つあるんですよね。見汐さんは「寿司日記」というブログや、「寿司日乗」という日記を書かれてますよね。そこでは日々の出来事や、日々感じたことを書き綴られてますよね。これは別に、「どういうことだ」と批判してるわけじゃないんですけど、「風呂敷を開くとからっぽ」だと思っているとすれば、何も記録しないってことになりそうな気がするんですよね。

見汐 そうですね。矛盾してるんですが、風呂敷を開いてしまうとからっぽなんだけど、瞬間瞬間で完結するものの中に、強烈に残っている場面があって。友達の笑顔だったり、誰かの後ろ姿だったり、なんでもないことなんですが、人生の中で要所要所にあって、そういうものは記しておきたいと思うんですよね。それは自分で読み返すためにつけはじめたもので、何もないんだけれども、何かがあったことは記しておきたくて。それが未来に対して何かになるわけではないから、結局のところ無駄なんですけど、ただ印象に残っている場面をかいつまんでスクラップする感覚というか、それをやっているんだと思います。

橋本 僕がドライブインを取材してることも、「そこに何かがあった」ということを書き残しておきたいと思って始めたことなんです。そこで記録しているのは僕自身の人生ではないから、「記録したところで無駄なんですけどね」とは言えないですけど、「それを記録してどうするの?」と言われると答えに困るところはあって。『月刊ドライブイン』を作っていたときは、「このお店に話を聞かせてもらいたい」と思ったら、まずは普通にお客さんとして食事をして、何時間か居座って飲み食いし続けて、少し打ち解けたところで「実はこういう雑誌を作ってまして……」と切り出していたんですね。そこで取材を引き受けてくださったお店があったおかげで『ドライブイン探訪』という本を出版できたわけですけど、取材という言葉を出した瞬間に、それまでにこやかに対応してくださっていたのに表情が曇って、「さっさと帰ってくれ」と言われたこともあるんです。そこまで拒絶されなくとも、「このままひっそり消えていくつもりですから、取材は結構です」と言われることも多かったんですね。そう言われたときに改めて感じたのは、取材するって、すごく余計なお世話でもあるなということで。

見汐 断る側からするとほんとに余計なことなんだろうね。普通に暮らしているだけだもんね。

橋本 そうやって考えると、一体何をやってるんだろうなと思うこともあるんです。そういうことを考えるたびに思い返すのが、川端康成の「雪国」に登場する一節で。主人公の島村が、駒子という女性が、「十五六の頃から、読んだ小説を一々書き留めておき、そのための雑記帳がもう十冊にもなった」という話を知る場面が出てくるんですよね。その雑記帳に書き留められているのは小説の感想ではなくて、「題と作者と、それから出て来る人物の名前と、その人達の関係と、それくらいのもの」しか書いていないと駒子が言うと、「そんなものを書き止めといたって、しょうがないじゃないか」「徒労だね」と島村が言うんです。僕が何かを書き記していることも、ある視点から見れば、まったくの徒労でしかないかもしれないなと思うんです。そうなってくると、「自分は一体何をやっているんだろう?」と。

見汐 もう、その連続ですよ。この何十年、「何をやっているんだろう?」の繰り返しです。20代のときは「真面目にやることやって年を経れば何者かになれるんだ」と思ってましたけど、そんなことはないんだなと今は思うし。何者にもなれずに死んでいくんだなと。

橋本 お店を経営されている方にも、「何者かになってやろう」という思いで経営されている方もいらっしゃると思うんですね。というか、そういうものだと思っていたんです。就職してサラリーマンになるのではなくて、自分でお店を創業されるからには、そこにきっかけや動機や目標があって始めているのだろう、と。でも、ドライブインで話を伺っていると、「あの時代はドライブインが流行ってたんだよ」とか、「特に理由はないけど、この道路にクルマが走るようになってきたから、ドライブインでもやってみるかって始めたんだよ」とかおっしゃる方が多くて、すごく粛々と営んでこられた感じがしたんですよね。

見汐 私はお酒を飲むのも、酒場という場所も好きでよく行くんですけど、上野に「多古久」という100年以上やっているおでん屋さんがあるんですね。そこで「100年ってすごいですね」と伝えたら、「たまたま100年続いてるだけだよ」と言われたことがあって。その時、ふと思ったのは、当たり前のように普通に過ごしている一日って、無名なものなんだなと。これは『ドライブイン探訪』を読んでも思ったことですけど、その無名な時間というものは、めちゃくちゃ尊いなと思ったんです。わざわざ遠いところまで、何遍も足を運んで取材して――「変な人だねえ」って言われてたと思いますよ。

橋本 そうですね。それは言われていたと思います。

見汐 身内でもなく、常連さんでもなく、よその人が興味を持ってきてくれる。それは一つの新しい目線じゃないですか。自分の日々の中にはない目線を持つ人が、違う角度から自分の生活を可視化されたものに変えてくれる。読んでいて泣いてしまう箇所もありました。

橋本 『ドライブイン探訪』で取り上げた22軒というのは、帯にあるように「戦後のあゆみ」を描くために選んだものではあるんです。でも、それだけではなくて、普通にお店を営んでいる普通の時間をどうにか言葉にできないかってことはずっと考えていて。僕もお酒を飲むのは好きで、よく行く酒場がいくつかあるんですけど、そのうちの1軒は見汐さんもよくいらしているお店で。それは新宿の思い出横丁にあるお店なんですけど、たとえば思い出横丁という場所を取材して雑誌の記事にしようとすると、「懐かしの」だとか「レトロ」だとか「人情」だとか、どうしてもゴテゴテとした形容詞をあれこれつけてしまうことになりがちだと思うんですよね。でも、そうやって言葉で装飾することは、自分がその場所を好ましく思っている理由とは真逆のことであるように思うんです。でも、ただ普通のことを普通に書き綴るのでは誰かに届きづらい部分もあるので、どうすれば言葉にして届けることができるのかってことは、ドライブインを取材しながらずっと考えてましたね。

あるうちに書くか、 なくなって書くか

橋本 見汐さんは歌を歌うこと、曲を作ることを生業とされてますよね。その一方で、ブログをはじめとして、文章を書かれることもありますよね。自分が普段感じていることと、それを言葉にすることのあいだにはどんな段階があるんですか?

見汐 文章を書くという行為と、歌詞を書くという行為は自分の中ではまったく違うもので。以前山本精一さん(1986年から2001年まで「BOREDOMS」に参加し、プレイヤー/ソングライター/コンポーザー/プロデューサーとしてワールドワイドに活動を展開)と雑誌で対談させていただいたときに言い得て妙だなと思ったことがあって。山本さんは「歌詞を書くのは落ち穂拾いと一緒だ」とおっしゃっていて。なるほどなぁと思ったんですが。歌詞は「よし、書くぞ!」というよりも、たくさん転がっているものの中から自分が何かを引き当ててて、それを羅列していく作業で、文章を書くという行為はもう少し自分の生活に密着していて、一日の中にハイライトってあると思うんです。何でもないような一日の中にも、何かあると思うんですよね。自分の中で強く印象に残ったハイライトの中に何か大切な、本質的なものがある気がして。文章を書くのは、それを可視化する作業なんだと思います。本質的なものってそういうなんでもないことの中にこそこぼれ落ちるぐらいたくさんあるような気がしていて、自分の場合は一度文章にしてみないとわからないことが多々あるので、続けているだけなんですけど。

橋本 その、歌詞にすることと文章にすることの違いについてもう少し伺いたくて。たとえば、見汐さんが作った「歌女夜曲」という曲がありますよね。この曲は、さきほど話に出たおばあさまから見汐さんが伺っていた話があって、その話をもとに作られた曲ですよね。誰かから聞いた話や、自分の目の前にある話があって、それを歌という形にするのはどういうことなんでしょう?

見汐 なんでしょうね。歌詞に関しては、フィクションを連ねることで見えてくる真実が――事実ではなく真実というものがあると思っていて。事実というのは、日々の連続ですよね。今ここにいることも事実だし、今日こうやって話したことも事実ですけど、それと等しいものではないのが真実だと思うんです。曲を聴くときって、それがフィクションかノンフィクションかなんて考えずに聴きますよね。映画やドラマになると、フィクションかノンフィクションかを先に謳うものが多いですけど、音楽だと全然そういうことがなくて、歌の中には真実がたくさんちりばめられていると思います。

橋本 そう考えたときに、どこに真実を見出すかが気になるんですよね。『ドライブイン探訪』であれば全国に残るドライブインを取材しましたけど、次に出版する『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場界隈の人々』という本であれば、6月に建て替え工事を迎える第一牧志公設市場周辺の風景を書き留めようと思って、取材を始めた本なんです。それはいずれも「今そこにある風景を書き記したい」ということで取材したんですけど、僕がすべての風景を記録しようとしているかというと、そんなことはないわけです。このトークイベントが始まる前に、見汐さんが「この通りは、昔はこんな通りでね」と話してくれたじゃないですか。その話を「そうだったんだ」と聞きながらも、じゃあ僕がこの通りの昔と今を取材するかというと、そうではなくて。それは別に、この通りには関心がないってことではなくて、気になっていることがあっても、すべてに目を向けることはどうしてもできなくて、見送ってしまうことがたくさんあるんですよね。そうすると、何を選ぶのかってことになってくるんだと思いますけど、見汐さんがおばあさまから伺っていた話はきっとたくさんあるなかで、その中から何かを選んで言葉にする作業がわるわけですよね。

見汐 ちょっと話が変わるかもしれないですけど、自分が暮らしている街の中で、「あれ、ここ、急に空き地になってる」って場所があるんですよ。そこに何があったか思い出そうとしても、あまりにも当たり前にあったものだから、すぐに思い出せないわけですよ。あるいは、よく行っていたお肉屋さんとか花屋さんとか八百屋さんが、「何十年やってきましたが、この日をもってやめさせていただきます」という貼り紙を出して閉店することもあって。何十年もやってきたのに、貼り紙一枚で終わるのかと思うわけですよ。そういうのを見るたびに――歌にしたおばあちゃんの話もそうですけど、自分がピンポイントで反応したものは、形にしたいと思うんです。それは私のタチだと思います。ただそれだけ。皆さんが暮らしている街の中にも、急に空き地になっている場所ってあると思うんですけど、「ここ、何だったっけ?」と思い出そうとする行為のほうに私は興味があるというか。だから逆に、『ドライブイン探訪』みたいに、ずっとそこにあるものに対して取材されることのほうが、とっても勇気のいることだと思います。

橋本 取材したお店について書くときも、当たり前ながらかなり気を遣っていたんです。なかなか大変な環境の中を生きてこられた方がいたとして、でも、関係する方たちがまだご存命であると、それをストレートに言葉にすると差し障りがあるだろうなと思うんです。でも、その苦労をなかったことにはしたくないから、じっくり読んでもらうと伝わるように書いていて。たしかに、おっしゃる通り、まだそこにあるものを書こうとすると書きづらいこともあるんですけど、すべてが終わったあとで書くのはどうしても嫌なんですよね。文章にするということは、その文章を書いているその瞬間よりも未来にいる誰かに読まれることを前提としているわけですよね。そうやって未来を意識すると、いつかそれがなくなる日のことも意識してしまうから、だったらまだ目の前にあるうちに書いておきたいんだと思います。

見汐 それ、すごいよね。私は「あるときはただあればいい」と思うから、自分が生きているあいだのことは、そっとしておいてほしい。

橋本 そういう気持ちもわからないではないから、いつも「取材するというのは、余計なことをしているな」と思ってます。

見汐 いや、自分はやらないってだけで、テレビなんかでもドキュメンタリーなんかを観るのは大好きだから、余計なことだとは思わないです。ただ「すごいな」と思って。

日々をやり過ごす

橋本 昨日は福岡から佐賀のドライブイン巡りをして、虹ノ松原の近くにある「ドライブイン鏡山」というお店にもお邪魔したんですね。

見汐 ああ、うちの地元ね。鏡山は皆が遠足に行くところです。

橋本 そこには展望台があって、虹ノ松原と海が一望できたんです。その展望台の近くに巨大な像が立っていて、一体何だろうと思って近づいてみると「松浦佐用姫」と書かれていたんですけど、すごくなんとも言えない表情を浮かべていて。近くにあった説明書きを読むと、佐用姫はある男性と恋に落ちたものの、相手の男性が出征のためにはなればなれになってしまって、佐用姫は鏡山の山頂から舟を見送って、七日七晩泣き続けて――。

見汐 石になった、と。

橋本 その、「石になる」ってことに置き換えられるのが面白いなと思ったんです。ドライブインはちょっとした名所・旧跡の近くにあることも多くて、言い伝えが残る場所もちらほら見てきたんですけど、そういう伝説はなにかと石になりがちだな、と。それはつまり、強い思いが残り続けたってことを、硬くて風化しづらい「石」というものになぞらえたんだと思うんですけど、それが興味深くて。それで言うと、歌っていうものにも、「石」に近い何かを感じるんですよね。自分の気持ちであれ、誰かの気持ちであれ、それを短い言葉に詰め込んで、タイムカプセルのように閉じ込める。ずっと昔の人の感情が詠み込まれて、それが現代にいたるまで引き継がれてきた短歌も「歌」ですよね。そうやって焼き付ける作業って、すごいことだなと思うんです。

見汐 どうなんでしょうね……。今、noteというサイトで「寿司日乗」という日記をつけてるんですけど、始めてみてわかったのは一日の終わりに日記をつけるって、めちゃくちゃしんどいんです。今日はこんな事がありましたって事だけを綴っているはずなのにいつの間にかその日の自分を反芻して、自己解決しようとして、こんなん毎日やってたら吐きそうと思ったんですよね。だから、日記をつけ始めたことで、「なんとなくやり過ごすのが日常だ」ってことがよくわかったというか、振り返って「あのときはああだった」というぐらいがちょうどいい温度で、毎日のことを一日の終わりに振り返っていたら身が持たないと思ったんです。ドライブインをやってこられた方たちが50年を振り返って「あっという間だった」と言うのも、そう思わないと続けてこれなかったというのもあるんじゃないかと。取材をしていく中で相手の方が口をつぐまれる瞬間とか、無言になる数秒が幾度かあったりしました?

橋本 口をつぐまれるということはなかったですね。やっぱり、取材する相手の方に、「自分の人生はこれでよかったんだろうか?」と思わせる聞き方はできないですよね。ただ、そういう芯の部分に触れる瞬間はあって、そういうときは口をつぐまれるというよりも、言葉のトーンがとても強くなる方もいらしたんです。トーンの強さということで思い出されるのは、戦争を体験された方たちの言葉で。ここ数年は何度となく沖縄を再訪していて、明日からも沖縄に行くんですけど、沖縄戦を体験された方が当時のことを語られると、やはりトーンが強いんです。あるいは、僕は広島出身で、祖母は被曝してるんですけど、祖母が戦争のときのことを話すときも、やっぱりトーンが強くて。それはきっと、そのときのことが強烈に焼きついていて、そのときのことを繰り返し思い返していて、そのときのことについて考えてきた言葉があるから、強くなっていくんだと思うんです。それは戦争まで遡らなくても、ここ数年で水害に遭われたドライブインを取材したときも、とてもトーンが強かったんですね。その強い記憶を受け取ったときに、自分はどうするかということはずっと考えてました。その強さを、僕がそのまま受け取って、代弁するように文章にすることだってできるけど、それはやってはいけないことだなと。

見汐 この本の中では、橋本さんが取材して感じたことは必要以上に書かれてなくて、事実だけを綴ってますよね。改めてとても面白かったです。

ただ それだけのこと

橋本 今の話と重なることとして、今日は聞いておきたかったことがあるんです。見汐さんが2017年3月から開催されてきた「うたう見汐麻衣」という企画は、平岡精二さんという方が作られた曲を歌うことを一つの軸とするライブですよね。見汐さんは『ひきがたり』というCDもシリーズでリリースされていて、そこにはご自身の歌だけでなく、誰かの歌も歌われています。それで、今回のイベントの告知に向けて、書店の方から「見汐さんの肩書きは」という話が出たときに、よく使われる肩書きとしてシンガーソングライターというのがありますけど、見汐さんはシンガーソングライターという肩書きを使われませんでしたよね。

見汐 紹介されるときに、一番言われるのはSSW(シンガーソングライター)です。でも、そう言われるたびに「いや、違うんだよな」というのがあって。まあそんなことは私の気持ちの問題であって、人様からすれば何でもいいことですよ。ただ、いつまでたってもしっくりこないというのがあるだけで。

橋本 見汐さんはおぼえてらっしゃらないかもしれませんけど、いつだかの「うたう見汐麻衣」のあとに、僕がそそくさと帰ろうとしていると、見汐さんが話しかけてくれたときがあって。そこで僕が「僕の中ではもう、安室奈美恵か見汐麻衣なんです」という話をして。

見汐 おぼえてますよ。「なんてことを言う人なんだ」と思いましたよ。「酔っ払ってるのかな?」と。

橋本 酔っ払っていたのは確かですけど、酔った勢いでいい加減なことを言ったわけではなくて。もうすぐ終わる平成という時代を振り返ると、シンガーソングライターと呼ばれる方が大勢登場した時代で、「私」が溢れた時代だったなという気がするんです。ただ、見汐さんの場合、「私」という容器にこだわっていない感じがすごくあって。安室さんも、数曲だけ自分で作詞されてますけど、あとは誰かが書いた言葉を「私」として歌っているんですよね。

見汐 安室奈美恵さんは私のような端くれ者からすると素晴らしいエンターテイナーであり、芸能人なので、まったく違うと思いますけど、私の場合、バンドもやっていますけど、それはまたこの「うたう見汐麻衣」でやっている事とは異なるもので。邦楽に限ってですがSSWと言われる人たちの歌を聴けない時期があったんです。「私はこういう人です」「私はこういうこともできます」っていうことのほうを、歌っていることよりも先に感じてしまって、自己実現や自己表現の手段として聴こえてしまう音楽には食指が動かないっていう。歌う人自身が「私を見て!」と言っているように感じることが多くて、歌そのものをちゃんと歌えている人が昨今少ないなと思っていた時期に「円盤」の田口(史人)さんから「歌うということがどういうことかあらためてやってみる企画をやらないか」と言われて始めたのが「うたう見汐麻衣」なんです。実際やり始めて気づくことも沢山あって、自分は歌の媒介であればよくて、そこに関しては自分がどうあるべきなどということは一切ないですね。

橋本 見汐さんのライブを観ていると、そこに愕然とするんですよね。今回のタイトルである「ただそれだけのこと」というのは、見汐さんが作られた「エンドロール」という曲に登場する言葉です。ある時間に対して「ただ それだけのこと」と形容するというのは、別に投げやりに言っているわけではないと思うので、すごい腹の据わり方だなと思うんです。僕はまだそんなふうに言い切れなくて。

見汐 何でしょうね。今はもう「ただ死ぬまで生きよう」ってことしか考えてなくて。その中で、自分の作品が誰かの永い友達になってくれたら本望だなということは思いますけど。

橋本 これまでほとんど話したことがなかったのは、その腹の据わり方をうっすら感じていて、それが怖かったのもあるんだと思います。でも、今日、こうしてお話できてよかったです。

見汐 こちらこそ、ありがとうございました。『ドライブイン探訪』、まだお買い求めになってない方はぜひ買ってください。

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