82年生まれ、キム・ジヨン

『82年生まれ、キム・ジヨン』の謎を解く――語り手は誰なのか?
『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ著 斎藤真理子訳)をめぐる対談

『82年生まれ、キム・ジヨン』(チョ・ナムジュ著 斎藤真理子訳)について、まだ語られていないことがある。 この本の語り手は本当は誰なのか? その他、仕掛け、翻訳の苦労などについて、本書の翻訳者である斎藤真理子さんと、書評家の倉本さおりさんが語り合う。下北沢のB&Bで2019年1月18日に行われたトークだが、いま明かされる話がある。 現在発行部数13万部(2019年7月現在)の本書は、今後も、映画化、欧米での刊行予定など、今後も話題満載!

 

 

■翻訳の苦労

 

倉本 訳す時に特に苦労されたというところはありますか。

斎藤 ものすごく淡々とした文章なんですね。それと、人物の呼称。いちいちキム・ジヨン氏、と「氏」が入ってくる。あれはやっぱり韓国語で読んでも違和感があるけれど、その「氏」が入ってることによって、第三者として突き放して読むことができる。報告書を読むような感じで距離を置いて読むことができてよかったというふうに書いていらっしゃる方がいました。でも逆に小説だから、物語として引き込まれて読んでもらわなきゃいけないけど、文章はめちゃくちゃ淡々としてるので、どっちにシフトさせるかというのが難しかったですね。

倉本 それでも韓国で100万部売れたってことですもんね。

斎藤 最初の1章はキム・ジヨンの憑依ということで、強く惹きつけるんです。そこはやっぱり報告書の中でも非常にドラマティックな部分です。そこを読み終えて、次の章に入るとノンストップで読んじゃうような感じだと思いますね。100万部というのは普段あんまり本を読まない人が読まないと、絶対にそんなベストセラーにならない。

倉本 それに韓国の出版市場って、日本の市場の2分の1ぐらいって聞きましたいけど。

斎藤 人口が2分の1なのでね、単純計算でもそうなんですけど、100万部のベストセラーってそうそう出るものではないので。しかも文芸でというのはなおさらです。一時期、「『キム・ジヨン』が春樹を抜いた!」みたいな垂れ幕が書店にかかっていたという話も聞きましたが、そういうのを見た韓国の人たちが、そんなに社会でみんなが読んでるんだったら読んでおかなきゃいけない、大衆が共感を持ってるものは接しておいた方がいいのかなみたいなことで買ってみたら、超腹が立ったみたいな人もいるらしい。かと思えば年長の世代の人にも、やはり自分の部下たちの気持ちというのはもっと把握しておくべきだと思って買って、それを友だちにも読ませたとかですね。また、下の世代の男性たちは非常に苦労してるし、軍隊に行くことによる大変なストレスもありますので、この本を読んでムカつく人が多かったり。

 国会議員がこの本を何百冊も買って、議員たちにこれは絶対読むべきものですってメッセージをつけて配ったそうで、そのメッセージは、「みなさん、キム・ジヨンをハグしてあげてください」というものだったと思う。そういう短いメッセージをつけて送ったんだけど、それも女性の票稼ぎになる行為としてやっていたと見て嫌悪する人もいたようです。

倉本 でもわかります。白石玄さんの小説『たてがみを捨てたライオンたち』(集英社)が2018年に出て、話題になった。男性の側から男らしさとちゃんと向き合って、自分たちの男らしさとけじめをつけるにはどうすればいいかということが誠実に描かれていて。すごく繊細かつ意欲的な良い小説なんだけど、読者は圧倒的に女性が多いんです。もっと男性に読まれてほしいと私は思っているけれども、元々ジェンダー意識が鋭敏な人じゃないとそこに手を伸ばそうという気がたぶん起きない。

 

■ラストはもっと救われないかも(以下ネタバレ注意)

 

倉本 私の周りでも、『キム・ジヨン』について、「ラストでカタルシスや救いがなかった、モヤモヤした」って方が多いです。

斎藤 主治医の最後の反応ですよね。これは大きな仕掛けだと思います。理解がありそうに思えたお医者さんなんだけど。

倉本 優秀な部下の女性カウンセラーが辞めてしまうという段で別の顔が見える。

斎藤 その女性カウンセラーは出産前ですが、経過があまり安定していないので早めに退職するということになる。退職しないでそのまま産休を取るという形もあるけど、辞めるということになったわけですね。このお医者さんは、夫としては妻の自己実現を助けてあげたいと思っているけど、経営者としては……。

倉本 やっぱり他の企業と対応が同じなんですよね。今度雇うなら、結婚の予定のない、独身の女性じゃなきゃ無理だと思ってしまう。

斎藤 この本はお医者さんが聴き取ったキム・ジヨンの半生のカルテという形式になってるじゃないですか。でも私、思ったんですが、精神科のクリニックって必ずしも医者が話を詳しく聴くわけじゃないですよね。こんなに綿密に話を聞いてる時間、ありませんから。カウンセラーが話を聴いてレポートを上げて、医者がそれを見て診断と処方をやっていく方が普通ではないかと思います。ですからこの物語は、カウンセラーの女性が聴き取って書いたレポートかもしれないと考えることも可能じゃないか。そう思うと、男性の主人公たちに名前が与えられてないのも納得できる感じがするんですね。この女性カウンセラーは妊娠してるわけですよね。そしてジヨンさんは2歳の子どもがいて、精神的にとても苦しい思いをしている。本には、週に2回45分ずつカウンセリングをしていると書いてあります。そのカウンセリングで、小学校のころの話から今までの話をずっと積み上げていくわけです。聴く側から見たら、それは自分の近未来なわけだから、子どもを産んだ後どうなるのかと、先輩の経験を聞くような形で濃密なセッションが行われたかもしれません。もしかしたら、聞き手に興味があるからチャ・スンヨン先輩とかの名前は記録されるけれど、興味がないから弟の名前は聞いてないのかもしれない。お父さんもあまり出てこない。おばあちゃんはコ・スンブン「女史」と書いてある。これもすべて、女性同士のカウンセリングで書かれたからという見方もできるわけですね。

倉本 確かにそうですね。弟がその後どんな大学に行ったかとかは具体的に書かれてないですし。

斎藤 ぼんやりと、「勉強が長引いている」という形で書かれています。大学院とか医学部とかに行ってるということだと思う。男子はその中に2年間兵役が入るので、親が面倒を見なきゃいけない期間が長引くこともあるわけですね。このレポートでは弟には注意を払わない感じが漂ってますが、それも女性同士の会話で出てきたからかもしれない。

 さらにうがった見方をすると、この女性カウンセラーが辞めるとなったら、他のカウンセラーに引き継がないで、このクリニックを辞めてしまう患者が多かったと医師が言っていますよね。ひょっとしたら、このクリニックを辞めるクライアントの中に、キム・ジヨンもいるんじゃないか。もしそうだったらなおさら治りませんよね。

 ここまでは私の仮定による、「こういう可能性もある」という読みですが、とにかく最後まで読んでも、このお医者さんの処方の薬で治るかどうかは全然はっきりしなくて、なおさらモヤモヤした感じが残る。このモヤモヤは、家族関係が良くても、医療の対応が良くても、根本的な何かが変わらない限り、キム・ジヨンさんが自分の声を取り戻すことは難しいという示唆なんだと思います。

倉本 この医師は本当にしれっとしているというか、自分の妻には好きなことをして働いていってほしい、キャリアを断念しないでほしい、と明言している一方、自分の仕事の中で登用する女性にはそういう理不尽を押しつけて当たり前だと思ってるという。結局は何も気づいていないということをまざまざと突きつける終わり方になっている。

斎藤 100万部突破記念特別版のインタビューによると、医者の最後のエピソードは元々の構想にはなかったそうです。この本は、チョ・ナムジュさんもこんなに売れるとは全然思ってなかったというか、本になるかどうかもわからなかったと言ってるんですね。原稿を書いて出版社に渡したけど、本になるかどうかわからなかったと。担当編集者も1万部いけばいいなと思ってたんだって。だから書いた側はこんなにすごい鉱脈を探り当てたことに無意識だったのかもしれない。私もさっき言ったように、こんなにたくさんの日本の人たちが泣いちゃったりという反応になると思ってなかった。だから本を作る人って、どこにどんな鉱脈があるかわかってないものなんですね。韓国でもそうだったということですね。

 最初の原稿ではお医者さんのことはさらっとしか書いてなくて、著者自身の言い方によれば、お医者さんは全部ではないが、ぼんやりとキム・ジヨンさんの気持ちを理解していると、そんな感じで温和に終わらせてたらしいんです。そうしたら編集者からインパクトがないと言われたので考えて、お医者さんの妻の話を新たに入れたということです。あれがあるとないとでは全然違いますね。

倉本 だってもう読み終わった時に、お前もか! とツッコんじゃいましたもんね。おかげで「怒り」が駆動されて、いろんな人に広めたくなる欲が促進されます(笑)。

――本日はありがとうございました。(2019.1.18)

 

 

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