海をあげる

きれいな水

 夏をむかえると、娘の保育園の園庭には水の入った小さなブリキのバケツがずらりとならぶ。水に誘われるように子どもたちは庭に出て、小さなおしりをバケツにぎゅうぎゅういれて水につかる。
 保育園の園庭にある水道の蛇口は、子どもの目の高さに設置されていて、どんなに水で遊んでも子どもたちは怒られない。夏の暑い日、「水道代は大丈夫ですか」と声をかけると、「もちろんすごい金額ですよ。でも子どもに必要なものは水だから」と、保育園の先生はきっぱり言った。
 娘がまだ赤ちゃんのころ、その保育園のベテランの先生は、毎日たくさん水を飲ませて、必ず身体のマッサージをするように私に言った。

 「赤ちゃんのときに水が飲めないと、ずっと水を飲めない子になるからたくさん水を飲ませてね。風花は肌が弱そうだけど、汗もいっぱいかかせてね。石鹼を使わないで、きれいな水で洗ってマッサージをすると皮膚は強くなるよ。マッサージのやり方は覚えてね」

 登園した赤ちゃんは、必ずその先生にマッサージを受ける。それは格別に気持ちがよいらしい。娘を連れて登園すると、保育園児になりたての赤ちゃんたちがハイハイしながらその先生を追いかけていた。ハーメルンの笛吹き男さながらの光景に笑っていたら、娘もじきにその一人になった。

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 保育園の先生たちが大事に育てて、娘はほんとうに水が好きな子どもになった。お風呂に入ると娘は蛇口に口をつけて水を飲む。水をはったバケツがあると、娘はバケツに入って水と遊ぶ。海でも川でも、娘は水にまっすぐ入る。
 そろそろ娘の遊ぶ浮き輪やバケツを出そうかと思いながら過ごしていた今年の5月、うちの水道水が汚染されていることがわかった。
 宜野湾市の住民の血液検査をしたところ、発がん性などのリスクがあるという有機フッ素化合物PFOSの血中濃度が全国の4倍、国際的に規制がすすむ有機フッ素化合物PFHxSは全国の53倍の数値を示し、その水源は嘉手納基地近くの北谷(ちゃたん)浄水場だと報道された。
 その日の朝刊には、血液検査に協力したひとたちの、「湧水が汚染されていたのは知っていたけど、まさか水道水まで汚染されていたなんて」「井戸の水は避けるようにしていたのに」「浄水器は役に立たなかった」というコメントが並んだ。
 湧水の汚染の次は水道水かと思い、怒りより先に悲しく沈む。去年の秋には、普天間基地一帯の湧水から、飛行場で使用される有毒物質の泡消火剤が検出された。うちの近くの遊歩道のある湧水からも泡消火剤の反応が出て、最近になって「この水は飲めません」という看板がたてられた。
 起きてきた夫に、宜野湾に住んでいるひとの血液から高濃度の有毒物質が検出されたことを告げる。そして、「うちの浄水器が役に立っているのかわかるまでは、風花に水道水を飲ませるのはやめよう」と言った。「水を買うってこと?」と聞かれて、うっすらと傷つく。
 「うん。通販とかで九州の水を届けてもらおう。どっちにしても、いろいろわかるまでは、沖縄の水を飲ませるのはやめよう」と話した。「そうしようか」と夫は言ったけれど、私が何にショックを受けているかは理解できないみたいだった。仕方がないのでもう少し説明する。

 「遊歩道の湧水だけじゃなくて、今度は水道水がアウトだなんて、なんだか本当にまいっている。こんなに爆音があって、これ以上ひどいことはないと思っていたら、オスプレイがやってきた。あのときと一緒で、このままここで暮らして大丈夫かな、引っ越さなくていいのかなって思っている」

 黙って聞いていた夫が「んー、引っ越しは現実的じゃないんじゃない? ほかも同じ浄水場だと思うし、ゆっくり話そう」と言うので、今度は私が黙り込む。
 娘が起きてくる前に、近所の自動販売機でその日の朝の水を買う。500mlのペットボトル2本の水があれば朝ごはんの支度はできる。こうやって料理の水はコントロールできるけれど、お風呂の水はどうだろう。お風呂に入るとき、娘は水道の蛇口に口をつけて水を飲む。水でふくらんだ娘のまるいおなかをバスタオルで拭きながら、私はいつも娘と笑う。

 年明けから頻繁に、100デシベル以上の爆音をたててアメリカ軍の外来機が飛んでいる。SNSにアップしてみんなに見てもらおうと思うのに、撮影ができたことは一度もない。飛行機が飛ぶと音に娘はおびえて、ひどいときには泣き叫ぶ。だから飛行機が飛んでいる時間、私は娘のそばから離れない。遊歩道のきれいな湧水に歓声をあげた去年までの娘のことを考える。湧水が汚染されていることを知ったとき、私はその水をあきらめた。
 これからも、娘が泣いたらそばにいる。もう、娘をあの遊歩道に連れて行くことはない。そしてこれからは、娘に水道水は飲ませない。私が決めたいくつかのことは、ほんのわずかな譲歩だろうか。ちょっとずつ我慢しながらここに居続けたことが、いつか決定的な間違いになる日が来るのだろうか。あのとき逃げだせばよかったと、後悔する日が来るのだろうか。
 しばらくたってから、北谷浄水場を水源とするほかの町の水道水からも、有毒物質が検出された。沖縄のあちらこちらの水が汚染されている。私は、どこに逃げたらいいかわからない。

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