海をあげる

きれいな水

 いま、まっただなかで暮らしているひとは、どこに逃げたらいいのかわからない。近所に住む白髪の女性に話を聞いたときもそう思った。
 宜野湾市で暮らすようになったとき、この近くには自然壕があって戦争のときには住民がそこに隠れていたこと、自然壕のなかにはきれいな湧水があって飲み水に困ることはなかったことを近所のひとから教えてもらった。
 「湧水があるからなんですね。このあたりで蛍が飛ぶのは」と言うと、「その川にはカワセミもいますよ」と教えてくれた。
 あとで調べると、カワセミは翡翠(ひすい)と呼ばれる色をした美しい鳥で、戦争のときに住民が隠れていた自然壕は、私の家からほんの少し離れた場所にあった。そのときから、ここで長く暮らしてきたひとの話を聞いてみたい、水面を飛ぶ本物のカワセミを見てみたいと思いながら生活する。

 2018年の1月、カワセミを見るより早く、ずっとここで暮らしてきた女性の話を聞けることになった。
 近所の鍼の先生から、近くに90代の女性がいて、戦争中のことを教えてもらえると紹介されてその家を訪ねてみると、仏壇前には白髪の女性が、縁側には60代くらいの男性が座っていた。私が「こんにちは」と挨拶をすると、「耳が遠くなっている」と女性は言い、縁側に座っていた男性は、「おばあは耳が遠いから、もっと大きな声で話さないといけないよ」と言いながら女性の隣にすとんと座った。あんまりなめらかに座るので、その男性は息子なのかと思ったら甥で、聞けばこの家の手伝いをしながら過ごしているとふたりは言う。
 目の前に大きな畑があったので、「戦後はずっと、畑をしていたんですか?」と尋ねると、「花をやっていた。菊、はじめはキンセンカとかカーネーション」「アメリカー(アメリカ人)に1ドルで売っていた」「嘉手納空軍基地までバスに乗って、毎日、行商」と女性は答えた。
 それから基地から持ち帰ったものを、なんでも売り買いしながら生活してきたと白髪の女性は話し出す。

 「小さいビンがよ、でべそのビンがあるでしょう。あれもらってきてね、1銭で買って2銭で売りよった、那覇のカラスグヮ~屋(塩辛屋)に(笑)。カラスグヮ~を売るでしょう。ビン買いにきよったよ、お家に。うちはアメリカーにね、『もったいない!』と言いよったさ。(そう言って)このビンはもらいよった」

 沖縄では、海の藻を食べたことのない産まれたばかりのアイゴの稚魚を取って、それを塩漬けにして発酵させてスクガラスという塩辛にする。そのスクガラスを詰める瓶を、嘉手納基地から買ったりもらったりしては、スクガラス屋に売っていたと女性は話す。
 「おばあは偉いよ、40過ぎてから車の免許もとった」と男性が言うと、「はっしぇ(ほんとうに)! 1年もかかった!」と女性は言い、「はっしぇ! もっとかかったよ!」と男性が言うので、みんなで笑う。

 それから、1945年の4月の話になる。
 女性は、近所の自然壕に家族と親戚で隠れていた。壕のなかには数えられないほどたくさんのひとが隠れていた。4月になると海からの艦砲射撃の爆弾は休むことなく降り注ぎ、ここはもう危ないからみんなで逃げようという話になった。
 4月4日、女性は家族や親戚23名で自然壕を出て、日本軍と一緒に南のほうに移動した。
 「どこに逃げたんですか?」と尋ねると、「浦添城址の前の道を通って首里」、それから「繁多川(はんたがわ)」、それから「どこかも道がわからない」、それから最後は「喜屋武岬(きやんみさき)」と女性は言う。
 女性が逃げたルートを聞いて息をのむ。それは住民を盾にして移動した、日本軍の壊滅のルートだ。その先々で起こったことを、戦争が終わったあとで生まれた私たちは知っている。
 女性は続ける。

 「弟は戦争には行かないがね、『人が亡くなっているよ』って言って、これ(遺体を)片付けに行ったら、自分が墓の側にいて、こんなにして(倒れていて)。……見たくもない。(弟の)すぐ頭の上に破片があってね、見たくなかったよ。うちは見たよう」

 「(妹は)うちなんかの次男の、『子どもたちのミルク取りに行こう』と言って、ミルク取りに行ったらまたやられて、(帰って)来なくなっていたさ。『子どものミルク取りに行こう』と言って行ったら、また帰ってこなかった」

 「お父さんは歩きながら、大里村で、歩きながらやられたね。だ~ひゃ~、遺骨はないさ。この前にね、『お金持ってあるからね、あんた持っておきなさい』って。『勘定』って言ってね、うちが長女だったから、お金を私に渡すさ、お母さんはいるが、私に渡しよった。……こっちからみたら、戦車が通ったと思ったらね、『戦車、(生きている人間の)上から歩かすよ』……なんかデマがあるさぁね。これも怖くてね。毎日泣いて暮らしていたよ」

 「(親戚の)姉さんは子どももいたから、子どももいるから、『いつまでも(子どもと自分は)一緒だから、こっちに置いていてね』って。うちはまた、逃げたからね。この子どもたちもいなくなっていたさ」

 弟は、遺体を片付けるために外に出て爆撃を受けて死んだ。妹は、親戚の子どもたちのミルクを取りに行って帰ってこなかった。父親は、一家のお金を女性に託したあとで爆撃を受けて死んだ。親戚のお姉さんは、子どもと自分は何があっても一緒にいるからここに置いていきなさいと言って、そしてみんないなくなった。宜野湾市の自然壕を出た女性の家族と親戚の23人は、アメリカ軍に投降を呼びかけられた糸満市の喜屋武岬では4人になっていた。
 ずっと前に、東京の友だちが沖縄に仕事で来ていて、仕事が終わったあとで喜屋武岬に連れて行った。そこは、追い詰められた住民が、次々と海に飛び込んだ場所だ。
 見渡すばかりの青い海に歓声をあげた友だちは、「わかんないなぁ。この青さだったら飛び降りるんじゃなくて、泳ぐでしょう」と言って、私の隣で手足をバタバタさせた。

 「海が真っ黒だったらしいよ。あたり一面、アメリカ軍の戦艦が海を覆って、みんな砲口をこちらにむけて」

 友だちは隣でしんと黙り込んだ。
 車に戻ってから、「あの海が真っ黒だと、もうどこにも逃げることはできないって思っちゃうよね」と友だちは言って、「わからないことばかりだ」とつぶやいた。
 生き残った女性が捕虜になったのは、その海だ。

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