ちくま文庫

点滴が染み入るように

『年収90万円でハッピーライフ』(大原扁理 著)解説

「読むほどに静かに静かに地に降り積もり、最後はそこに我が身を投じて心地いい伸びをするような読後感を得られる一冊」と、読むだけで心落ち着く解説です。

 私がこの本を手に取ったのは、ちょうど心がざわついて、忙しない気持ちでいた時でした。昨年秋に亡くなった父からのメールをアーカイブしたりして、なんかこう、人生の取り返しのつかなさみたいなものも感じていたし、この先の仕事についても色々と考えたりして、とにかく頭の中がとっ散らかって心も千々に乱れていたのです。
 で、読み始めて数行で、点滴を打っているような気持ちになりました。熱が出て脱水症状になった時、点滴で水分を補給すると劇的に体が楽になるのですが、あんな感じ。一滴また一滴と柔らかな雫が体内に染み入って、すうっと乾いた部分に届き炎症を鎮めてくれるような、確かな身体感覚を伴って、その言葉たちは私の中に入ってきました。
 言葉を使って、言葉ではないものを表すのは簡単ではありません。大原さんの隠居ライフには言葉ではスパッと伝わらない、態度や気配や空気の肌触りのようなものが満ちていて、それを大原さんは実に穏やかで平易な文章で表現し、言語情報を巧みに非言語ベースの知覚に変換しています。
 だからこの本は、本を読み慣れていない人にも、まだ語彙がさほど豊富ではない10代の読者にも、知識が豊富で平易な言葉を軽んじがちな人にも、ちゃんと伝わる言葉のユニバーサルデザインであり、生理食塩水みたいに馴染みのいい読み物なのです。

 自分を知るというのはこの本でも繰り返し出てくる話ですが、なかなか難しいことです。自身の記憶を遡れば、まだ明確な他者を持つ前、3歳か4歳の頃、私はありありと自己を感じていました。この年齢ではまだ自我は未熟なものとされていますが、それでも当時は五感を通じて全ての事物とじかにやり取りしていたし、その主体であるところの自分というのは、誰にジャッジされることもなく自明のものとして存在していました。
 なぜそれが可能だったかというと、私には友達がいなかったからです。4歳ごろまで、海外で生活し家族とのみ接触して育ったため、私にはトモダチという存在は何か人工的な、生活圏外にあるもののように感じられました。ですから自分が何者であるかを、他者との関係ではなく、ただ自分の五感からのインプットで認識していました。

 はたから見たら「自己中心的で空気を読まない子供」だったのかもしれません。しかし47歳になんなんとする現在ではそうではないとわかります。様々な紆余曲折を経ても(誰だって紆余や曲折の100ぐらい抱えているもんです。たぶんあなたもそうであるように)、この「気づいたらここにいて、どこまでいってもついてくる自分を一体どうしたら良いものやら」という戸惑いは、なくなることはありません。それは大原さんがいうところの「好きなものを大事にして日々を丁寧に生きることの積み重ね」とは正反対の自分探し状態に見えます。でもそうした戸惑いこそが問いの源なのであり、問いのあるところにしか答えとの邂逅はないのです。
 大原さんの場合は、本を読むのと散歩をするのが好き、という性質がそうした内なる対話を可能にしたのだと思います。書物の中で他者の人生を経験し、想像力を培うことや、散歩で様々なささやかな発見をして、絶えず世界を更新することは、まさに対話に他なりません。私は長田弘の「世界は一冊の本」という詩が大好きなのですが、自分が呼吸しものを食べ寝て起きて生きていく営みの中にすでに多くの書物が、読まれるのを待っている言葉たちがあるのだと思います。
 これは「シンプルライフのすすめ」のマニュアル本ではありません。入り口はシンプルライフを目指すことではなく、自分が誰であるかを地に足つけて知ろうということ。大原さんの場合はその結果至った場所が年収90万円のシンプルライフだったというわけです。
 今自分に何かあってもきっと助けてくれるだろうなという人たちとの、緩やかなつながりの中で生きる安心感はかけがえのないものだというくだりはとても大事です。大原さんの言っていることは行き過ぎた個人主義に見えることもあるかもしれませんが、人を突き放す自己責任論ではなく、自分で始末のつけられる身の丈の暮らしをしながら、人にもできる範囲で手を差し伸べることが世界を豊かにするのだということなのです。それこそが今私たちの求めている生き心地のいい社会のありようなのではないかと思います。それを気負いなく行える心のありようは実に健やかです。
 大原さんはのほほんとしているようですが、たくさん本を読んでいる人の中には必ず、力強い言葉の奔流が絶えず水音を響かせているもの。この本の真髄はそうした大原さんの思いが綴られる215ページ以降にあります。
 日々の出来事に舞い上がり翻弄される羽根のような私たちの心が、読むほどに静かに静かに地に降り積もり、最後はそこに我が身を投じて心地いい伸びをするような読後感を得られる一冊。不安に震える夜には、またページを開こうと思います。

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