PR誌「ちくま」特別寄稿エッセイ

長いものについて

長いものに巻かれる話・1

PR誌「ちくま」8月号より河野聡子さんのエッセイを掲載します。

 最近自覚したのだが私は「長さ」という観念にこだわりがあるらしい。もちろん何を「長い」と感じるかは人によってさまざまだ。冬に首に巻くマフラーは長いが、本来ある程度の長さがなければ機能をなさないものである以上、ふつうの長さのマフラーを巻きながら「長いなあ」と思うことはあまりない。しかし仮にマフラー程度の幅と長さの物体に文庫本の文字サイズで文章がぎっしり書いてあり「首に巻いて出勤して、電車のなかで読んでおいて」といわれればどうか。その文章が文庫本にすればたかだか数十ページ程度の分量で、通勤電車で読み終えられるほどであったとしても「え、首に巻くにはちょっと長いんじゃない」と思うのではないか。
 私が第一に好ましく思う「長いもの」はまずそんな物体である。通常あるべき媒体や文脈、領域からズレているために「長い」もの。おおげさにいえばこれは芸術理論における異化のようなもので、詩的操作でもある。つまりなんでも「長いもの」にすれば詩的な物体に変換されるのだ。
 なぜ重いものや大きいものではなく長くなければならないか。それは「長いもの」はどこへ行きつくのか見えないからである。だから人が時々一般的によくあるサイズよりはるかに長いものを作ってしまうのは(たとえば全長数十メートルのホットドッグや数メートルの長さのかまぼこなど)そんな詩的欲求のせいなのだ。私自身は言葉を使う人間なので、これまでいくつかの制作物で言葉を使った「長いもの」を追求してきたが、動機の根源はきっとここにある。
 さて単純に長い物体を作ろうと思ったら、ひとつの辺を他の辺の数倍、数十倍、数百倍、数千倍……にするのが簡単な解決法だ。私が最初に作った「長いもの」に属する作品は紙の本で、高さ五センチ、全長十メートルだった。このような作品にはいくつかの工夫が必要で、つまり全長十メートルの紙きれを持ち運び収納するための方法を考えなければならない。この時は直径四センチの巻物にし、チチヤスヨーグルトの容器に収納したが、その後全長三十メートル、全長百メートルの本を制作したときはそれぞれ専用の架台を制作しなければならなかった。現在も私は「長いもの」を作っている。今回は本ではない。びっしり文字が書かれた紙の糸で、全長は千七百四十メートル。
 こんなふうに長さにこだわっている私なのだが、この頃気になっていることがある。冊子という形式が発明されたおかげで、本という物体は文字の数量やページの厚みとして測りはしても長さ単位では測られなかった。だからこそ「長いもの」として本を再構成することが詩的な操作となる。ところがいまやインターネット時代である。人間の手はスマホやパソコンの画面をスクロールし、言葉は電子の世界でどこまでも長く伸びていく。ここでは私がこれまで試みたような、紙という有限の媒体を前提にした「長いもの」の面白さは成り立たない。
 しかし紙幅のような制約がなくても、インターネットのテキストに長さが意味を持たないわけではない。逆にインターネットは、人が文章を読むときの長さの感覚に異なる意味を生じさせているのではないか。最近私の心を占めている「長いもの」はそんなネットの上の言葉たちである。

PR誌「ちくま」8月号

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