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現実において不在=ネガティブの場所、その場所を経験させることこそが芸術作品のもつ力であり可能性である。しかしこの不在の場をただ想像的な場所だということはできない。キーツは前出の書簡のなかで、さまざまな政治的な力学、論争に翻弄されたとき、そこから抜け出す力を与えてくれる特殊な感覚について述べている。
私はどんな幸福もあてにした覚えはありません。私は幸福というものを現在に求めるのでなければ求めたことはありません。──私をびっくりさせるものは瞬間だけです。落日はいつも私の調子を整えてくれるし、雀が窓の前に来たりすると、その雀の生命にとけこんでしまって、砂利などをついばむのです。
(『キーツ書簡集』、同前)
キーツは逆にこうした瞬間こそが、わたしたちが現実と信じている世俗的な世界、わたしたちの言動をしばる政治的な力の葛藤する場所よりも強いリアリティを感じさせるという。この瞬間は人間社会の秩序からすれば些細な事象だけれども、それは決して、単なる瞬間ではなく、むしろ日常社会から周縁にあることで時間を超えたものである=だからそれは何度反復してもつねに新しいという感覚を与える。その経験は自分が人間社会その時間と空間に属しているという自覚を放棄させる。それを可能にするのがネガティブ・ケイパビリティである。そこでわたしはもはや誰でもなく、小鳥たち、雀たちと《たましい》において溶け込み、気づくと一緒に砂をついばんだりしている自分を発見したりもする。
これら犠牲として連れて来られるのは誰だろう
緑なす祭壇に。ああ神秘的な神官よ
連れられていくのは 空にむかって声をあげる雌羊たち
花飾りの胴巻きをかけられ
川沿い、海辺の小さな町
しずかな砦とともにそびえる山
この慎みぶかい朝に、誰もいない空っぽの
小さな町、永遠に、人々みんなのための道
静まりかえった、この寂寞のわけ
それを告げる人は誰一人、もどってこない
(ジョン・キーツ『ギリシャの壺へのオード』拙訳)
もし芸術作品が既存の政治に縛られない、開かれた公共性を可能にするものだとすれば、その公共性は現実のどこにも属さない場所を確保することによってしか可能ではないだろう。そこでだけ、いかなる現実的な属性からも離れた音楽=旋律は奏でられる。その場所でだけ現実のいかなる場所でも出会うことのない《たましい》たちは共振する。いま引用した『ギリシャの壺へのオード』の別の一節は不気味だが、この「犠牲」とは固有の誰かであってはならない。
犠牲となるべきなのは、現世の世界に所属した、わたしたち、みなの存在なのだ。この道は永遠に人々みんなのために開かれている。この一節の光景を読んでいる者、眺めている者は、この光景の中にはいない。確かにこの光景には誰もいない(つまり、だれにも占拠されていない)。が、キーツはゆえにこの不在の場所ですべての《たましい》が出会うことができる、和解することもできるだろうと示唆する。もしわたしたちが自分たちの現実を否定的なもの、不在のものとして受け入れる力(つまり、みずからの存在を贖罪することのできる)ネガティブ・ケイパビリティを持っていさえすれば。