海をあげる

あたしにはもうなにも響かない

 七海が泣いている。夜の病院の明かりの消えた救急の待合室で、今日の夕方に起こった出来事を話していて。
 入院して4日目の夜、メールのやりとりをしていたら、七海がもう千切れそうになっているのがわかった。

もうどうでもいいです死にたいです。

――顔みて話したいからそこに行きたいんだけど。
――病棟は家族以外は入ることができない時間だから、救急のところまで降りてこられる?

 とりあえず服だけ着替えて、家を出る。

                   *

 2017年に始めた若年出産女性調査で、私は七海と知り合った。七海は家出を繰り返しながら大きくなった17歳の若い母親だった。
 七海は小学生のころからずっと父親から性暴力をうけていた。七海はいまもまだ、灯りを落とした柔らかい布団の上ではうまく眠ることができない。
 「こんなに眠れないの、昔のこととか関係あると思う? 」と尋ねてみると、「あると思います」と七海は言った。「病院、行ってみる? 」と私が言うと、「話すくらいで変わるんですかね? それにひとに話すのできないんですよ、病院でもどうせ話せないと思います」
 七海はきっぱり言い切って押し黙る。仕方がないので私は治療の話を封印する。

 病院に行ってみようともう一度話すようになったのは、知り合って2年もたってからだ。七海は母親と暮らしていた家を出て、子どもと一緒に施設で暮らすようになっていた。毎月の生活費がどうしても足りなくなったとき、七海はメンズエステと呼ばれる風俗店の仕事を探すようになっていた。
 沖縄のメンズエステ店では、裸になった男性客の身体をオイルでマッサージして、最後に射精をさせるまでがサービスの内容となっている。客ひとり40分で2000円、時給は1200円から1500円程度しかないけれど、時給が800円程度のサービス業よりも稼ぐことができて、女性は着衣のままで働くことができる。そのため、風俗店のなかではソフトなサービスを提供しているお店であると表向きはされている。
 七海は性的行為全般を嫌っていたけれど、中学生のころからお金がなくなると、ピンサロで働いたり「援助交際」を続けてきた。それでも子どもができてからは、「子どもかわいそう」と話し、風俗業界で働いている子どものいる女性たちのことを軽蔑していた。それでも子どもを育てていくお金が足りなくなったときに、「もうやるしかない」と七海は話し、メンズエステ店での仕事を探すようになった。
 面接のためにお店に行くと、ネット上に写真が掲載されることから、身バレを完全に防ぐのがむずかしいことや裏オプをしないと稼げないような賃金体系になっていることがわかり、結局、店で働くことはあきらめた。
 店で働くことをあきらめた七海は、アプリを使って「フェラのみ」「5000円」「観光客」「短時間」の客を探してお金を稼ごうとしていたが、ある日、そうやって探した客にレイプされて子どもの保育園の前の路上におろされた。

 身体が回復したあと、もっと安全に働きたいと七海は話し、風俗レポートをいくつも読んで、いくつかのお店の面接を受けた。
 七海が働くことを決めたのは、女性に性的な接触をするとただちにボーイがやってくるという、風俗レポートの客からは「不評」の店だった。それはつまり、店が働く女性を守ってくれる店である。
 初めて出勤した日、七海からは弾むような声で連絡があった

 「いままで口でやっていたから楽すぎて感動しました! 今日だけで15000円もらえました!」

 七海はその店のレギュラーとして働くようになっていた。客のほとんどが観光客で身バレの危険性がないこと、「密着」などとよばれる過剰な性的接触がないこと、出勤すれば1万円は持って帰ることができることから、七海はベストな選択ができたと話していた。
 それでも仕事を始めると、昔の記憶が生々しく蘇りはじめた。
 なにかのはずみで記憶が蘇ってしまうと、七海は自分でも気が付かないうちに客のいる個室から飛び出してしまう。次第に眠りにつくことがむずかしいと七海は言い始め、家に帰るとなにかをする気力が湧かないと話すようになった。
 私はそれまで月に一、二度、七海の部屋の片付けを手伝いに行っていたけれど、風俗の仕事をはじめた七海の部屋は、腐りかけの食べ物があちらこちらに散乱するようになっていた。
 部屋に散らばる、透明な袋に入ったまま腐ってしまったコロッケやチキン、パックされたまま傷んでしまったパイナップルやミカンをゴミ袋に捨てる。
 お店でなにかを食べようと思って買い求めても、七海はいま、それを食べることができない。食べ物を捨てるガサガサしたゴミ袋の音のなか、七海の欲望が、いまはもうほんのわずかな時間も持続しないのだと思い知り、それでもなにもできずに七海のそばにいる。

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