海をあげる

あたしにはもうなにも響かない

 そんなときに、記憶自体は詳細に話す必要がないトラウマの治療方法について知った。これなら七海も興味を持つかもしれないと思い、七海にそれを勧めてみた。
 「この方法は、記憶は話さなくていいんだって」と言うと、「だったら、大丈夫かもしれない」と七海は言った。興味があるなら、まずは一度その治療を手がける精神科医のところに行ってみようと提案し、もしも予約がとれたとしても、そのとき嫌になったら無理をせずに帰ることにしようと話し合った。

 予約が取れたのは、そういう話をしてから2週間ほどたってからだ。
 その日、待ち合わせ場所に現れた七海は、皮膚に炎症ができているので歩きづらいと話していて、ファミレスで注文したお昼ご飯もほとんど食べることができなかった。
 病院についてからも七海の緊張はまったくほぐれなかった。待合室で2時間近くたったころ、七海は胃けいれんを起こして動けなくなった。看護師に声をかけると、別室にあるベッドを用意してくれたので、車椅子に七海を乗せて移動した。ベッドにうつるとき、ズボンが苦しいと言ったので、ズボンを脱がせてタオルケットで下半身をきつめにくるんでベッドに寝かせた。
 落ち着いたからなのか不安からなのか、七海はしきりに話しかけてくる。七海とおしゃべりをしながら、今日、先生に何を話したいのか七海に尋ねる。困っていることを相談したいと七海が言うので、困っていることを七海にひとつひとつ言わせて、私は指を折って七海に見せて、「これだけ話せたら、今日はすごいね」と七海に言う。
 現れた医師はベッドのそばにあった椅子に腰掛けると、やわらかい声で「遅くなってごめんなさい」と、きちんと頭を下げて謝った。
 それから自己紹介を済ませると、「座ってでも横になってでも、楽な方法で話してもらえればいいですよ。付き添いはいたほうがいいのかいないほうがいいのか、七海さんが決めていいですよ」と話しかけた。

 「ベッドで眠ったままがいい。上間さんはそばにいたほうがいい」

 私は七海の眠るベッドの端に、できるだけ気配を消すようにして静かに座った。それから医師は普段、どんなことに困っているかを聞き始めた。七海は順を追って困っていることを話し始める。

 眠れないこと。
 連続して眠れるのは3時間くらいであること。
 お酒は飲まないこと。
 何が不安かわからないけれど、とにかく不安が強いこと。
 お金のことが心配なこと。
 バカみたいなんだけど、年金のことも心配していること。
 貯金が30万円くらいあれば落ち着くような気がすること。
 メンズエステで仕事をしていること。
 仕事は頑張っていること。
 でも客が自分に触ると恐怖を感じること。
 酔っぱらいが近くにいると震えがでること。
 怖い怖い怖いと思うと、ただその場から逃げようとすること。
 気がついたら、知らない場所にいたこともあること。
 我に返ったら、タバコを続けざまに吸って落ち着こうとすること。
 たぶん、それは性暴力の記憶があるからだと思うこと。
 性暴力は小学校2年生くらいのときにはじまっていたこと。
 父親と母親の離婚する小学校6年生の終わりまで続いていたこと。
 相手は父親だったこと。
 それはほとんど毎日あったこと。
 いったん行為がはじまると、自分にはもう何もできないと思わされていたこと。
 父親の怒った顔、怒鳴り声が怖かったこと。
 映像はいまだに残っていること。
 映像が蘇ると、自分はもう何もできないと思ってしまうこと。

 医師は七海のいまと過去を丹念に聞いた。七海はいま困っていることを話し、仕事のことを話し、話せないと思っていたはずの小学生の頃の日々を話し、怖いと思うと自分でも気が付かないうちにどこかに行ってしまうことを話した。
 医師は「七海さんはPTSDです」と告げてから、何が起こってしまうと昔に戻るのかというトリガーを整理した。それから手始めに睡眠の回復のためにできることと、主治医になった自分と医療ができることを説明した。
 七海がひとりで乗り越えてきた過去の重さと、目の前の患者の力を徹底的に信頼する医師の聞き取りに私は圧倒されていた。私が2年間かけて聞きとってきたことを、医師と七海はたった2時間で共有した。

 次の予約を取って、会計をすませて病院を離れたときには5時間近くたっていた。私は疲れていて、ぼんやり車の運転をしていたけれど、医師に診断を受けた感想を七海は明るい声で話し始める。

 PTSDですって言われたけれど、だってもうずっとこんな状態だから、いざこれが病気だと言われると、本当かな、あたし、病気かなぁって思います。

――あー、そうか。……不愉快だった?

 不愉快ではなくて、なんかびっくりするというか、いざ言われると、病気じゃない、違うんじゃないって言いたくなるというか。

――病気という診断は、嫌だった?

 いやぁ、あたし、病気なのかなみたいな。ほんとうかなみたいな。……あ! 上間さん、ここ、車線変更してください。左にいないとつまりますよ。

――ごめんごめん、間違えるところだった。……あー!!! 七海、道案内できている!

 ほんとだ。

 とっさに出た七海ののびやかな声を聞いて、胸が詰まる。七海はひとに道案内をすることができない。どんなにささやかなことでも、自分が誰かに何かを提案すると、怒られたり否定されたりすると思っているから、目の前のひとがなにかに間違えていることに気づいたときでも、七海は静かに黙っている。
 1回の通院だけで、これまでずっとできなかった道案内ができるようになったのだから、治療を始めたらいつか本当に恐怖を感じないで暮らせる日がくるのかもしれない。
病院の帰り道、私たちはふたりとも明るかった。

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