海をあげる

あたしにはもうなにも響かない

 病院に行った翌日、七海は熱を出した。七海の住んでいる施設にでかけて、眠っている七海のそばでおかゆをつくりながら、お茶碗を洗ったり、洗濯物を片付けたりした。私が家事をしているあいだじゅう、七海はこんこんと眠り続けた。
 目が覚めた七海におかゆをすすめて、「梅干しもいれる?」と聞くと、「はい」と七海は言って、「梅干しが美味しい」とおかわりをした。「うちの母が漬けた梅干し」と言うと、「本当ですか?」と、七海は目をまるくする。
 七海は手仕事をするひとの話や、そうした記憶を聞くのが好きだ。たぶん、自分の母親の昔の記憶が蘇るのだろう。母親がよくお菓子をつくってくれたこと、母親のつくるプリンが美味しかったので、いまだにどこのお店のものも美味しいと思えないことを、七海はなにか特別な話のように繰り返し私に語ってきた。
 ご飯を食べ終わった七海に、服を着替えるように言って熱をはかる。熱はだいぶ下がっているけどもう一度眠ってねと話して、夕方になってから私は自分の家に帰る。

 翌日の夜、七海はまた熱がでた。朝まで我慢して病院に行ったら盲腸だと言われて、緊急手術になった。夕方になって顔を見に病院に行くと、痛みを我慢しているあいだに盲腸が炎症を起こしたので手術が長引いたと担当の看護師から説明を受けた。

 「痛みに強すぎます。普通のひとが耐えられるような痛さじゃないですよ」

 どんなときもひとに助けを求めようと思っていないので、どうか気にかけてもらいたいと看護師にお願いする。看護師は何かあったらすぐに連絡しますねと私に話し、私は頭を下げて家に帰る。

                   *

 手術をして4日目のお昼、七海は個室から大部屋に移された。「4人もひとがいる大部屋はちょっと気をつかう」と七海は話し、「大部屋になったってことは、もうすぐ退院かもね」と私は話す。毎日、七海の顔を見に病院に行っていたので顔見知りになった担当の看護師が、カーテンの合間からひょいと顔を出して、「今日、タバコ吸いたいっていったんですよ! 絶対駄目だよ、傷がくっつかなくなるよ!」と声をかけてきたので、楽しくなってふたりで笑う。
 病院で一緒に過ごしていた今日のお昼、七海は明るい声で話していた。それなのに夜になると、「死にたいです」と七海が言うので、何があったのか私にはわからない。とりあえず顔を見て話さないとわからないと思いながら、急いで支度をして家を出る。

 病院に到着するともう9時を過ぎていて、病院全体が薄暗い。七海は救急の入り口脇のベンチでスマホを操作しながら私のことを待っている。スマホの光で青白く光る七海の顔をみながらそばに座り、「何があった?」と尋ねてみる。七海はスマホを伏せてから、夕方、施設の川上さんと喧嘩をしたと話し出す。

 上間さんが帰ったあと、4時半ごろかな、川上さんが来て、「精神科に行くの、やめたら」って。「なんで? あたしは行きたい」って言ったんだけど、「通院がストレスみたいだから」って。
 「あたしのストレスは病院じゃない! あたしのストレスはママだし! お前たちだし!」って言ったんだけど、「病院に上間さんが送迎するっていうの、ママに言えないでしょう?」って言われて。
 「自分で行くから大丈夫」って言ったら、「もしも病院に行くんだったら、ママには、自分で、PTSDの診断を受けたって、なんで精神科に行くのか説明をして」って言われて……。
 「お前が言っているのは、やー(お前)の夫が、娘をレイプしていたってことを、あたしが、自分で、ママに言えってことだからな」って叫んだんだけど!

――叫んだ?

 叫んだ。

 七海の叫び声は病室じゅうに響いたはずだ。午後4時30分という夕食前の時刻は、大部屋の住民たちが部屋にいる時刻でもある。

――ひどいね。

 死にたいって、もういいって思ってしまった。

――家族には話さないって決めて、ずっとひとりでやってきたのにね。

 それなのに、お前たちがバラすのかって思って。……多分、川上さんは、ママにバラすと思う。

――なんて言ったらいいのかは先生と相談しよう。何もかも、七海がひとりで抱え込むことないよ。

 まっすぐ前を向いたまま、七海はぽろぽろ涙を流す。
 5年近く性暴力を受けながら、家族を守ろうと思って母親に一言も話さないで生きてきた娘を前にして、なぜ施設の職員たちは母親の意向を尊重するのだろう。自分の夫が自分の娘をレイプしてきたことを知らない母親は、自分の娘が精神科を受診しようとする理由がわからない。
 細切れにしか眠れない娘の状態を知っても、ときどき身体が動かなくなる娘の姿を見ても、病気になるのは気持ちが弱いからだと七海のことを母親は責める。母親の意向を受けている施設の職員は、もしも七海が精神科に通いたいなら、父親から性暴力を受けていたことを自分で母親に話せと七海に迫る。そうすることで施設の職員たちは、七海の口から精神科に通うことはやめると言わせようとしている。
 七海のやりたいと思ったことはこうやって潰されていくのだと怒りながら、七海が泣きやむのを静かに待つ。七海が泣きやんでから、「退院が近いと思うけど、ここを退院するときはどうしよう?」と聞いてみる。すると七海は、母親が心配していたと施設の職員が話していたと言う。

 川上さんは、「お母さんは七海さんのことを思っているよ」って。「だって、比奈(七海の娘)を預かるって言ったの、お母さんだよ。お母さんが自分で、入院しているあいだは預かりますって言ったんだよ」って。「退院のときも、お母さんが退院手続きをしにくるって自分で言ってたから、心配してたよ」って、「お母さんのところにしばらく泊まってきたら?」って言うんです。
 ……ママのお迎えもあるなら、そのまま家に帰ろうかな?

 家に帰れば、七海はまた母親に傷つけられるのではないかと私は思う。でも、七海の人生だから七海が決めたことを尊重することが大事なのだと、これまで何度も戻ってきたところに立ち返り、決めたら教えてねと家に帰る。
 翌日、母親の家に帰ることにしたという連絡があった。夜になってから、「いまタクシーに乗っている」「比奈と施設に戻った」という連絡が七海から入る。

あいつらが言ったのと全然違いました。ママは、「施設のやつらに使われているよな」って苛ついていて。「『比奈を預かれ』っていう電話がきたから、仕方なく比奈をみてた」って言われたんで。……家に帰っても、結局、ママに、八つ当たりされるだけでした。帰るところがないから、タクシーで施設に帰りました。あいつら、もう、余計なことすんなって思う。

 「母親が七海のことを思っている」「母親が比奈を預かると言ってくれた」「母親は心配している」という施設の職員の言葉に、今度こそ母親は優しくしてくれると期待して、七海は家に帰っていったのかもしれない。
 でも、家に帰るとふたたび母親から暴言をあびて、七海は子どもを連れてタクシーに乗ってひとりで施設に帰っていった。期待して裏切られて傷ついて周りに不信感を抱き深く沈む。これまでと全く同じパターンだ。
 結局七海は、PTSDの治療をあきらめた。

精神科行くのあきらめます。
なにもかも邪魔されますもんね。
あたしの支援なのかママの支援なのかわからない。
なにもかもママに報告するっていうのも意味がわからない。
疲れました(笑)。