ちくま新書

事実は小説より奇なり

最長で20年にもわたる取材をもとに、現代の夫婦が陥っている「幻想」を描き出した『夫婦幻想――子あり、子なし、子の成長後』。著者の奥田祥子さんが、数々の「想像を絶する事実」に出会った取材を振り返ります。

 若かりし頃、芝居にどっぷり浸かっていたせいか、虚構と現実の境界線がわからなくなることが時々ある。ジャーナリスト、社会学研究者としては致命的といえなくもない。が、近頃、想像を絶する事実に遭遇することがあまりにも多く、虚構の世界で様々な人生を生きた経験もそれほど悪くなかったかな、と思い始めている。
 虚構を超える事実で最も激しく心揺さぶられるのが、人々の社会規範との壮絶なまでの闘いである。社会規範とは社会集団の成員に求められている考え方や行為を指すが、本音と建て前が交錯することもままあり、なかなか厄介な代物である。
 時代とともに人々の生き方は多様化し、一見、様々なライフスタイルが受容される社会に向かっているかのようだ。しかしながら、実際にはその時々に模範となる人生像が権力(公権力やマスメディアなど)から暗に示されている。社会からの生き方の規範の押しつけに苦しんでいる人がいかに多いかということを、長年の取材・調査を通して思い知らされてきた。
 この生き方の規範に沿えない人たちは、「逸脱者」と見なされる。そして、勝者と敗者に振り分けられ、社会的排除が着々と進行している――。虚構に見えて、現実のようでもある。
 ところで、政府は、定年を延長するなどして七十歳まで働けるようにする法改正を来年の通常国会で目指すらしい。このニュースをちょうど、高年齢者雇用をテーマにした研究で生々しいインタビュー・データを分析している最中に知り、言い知れぬ不安に襲われた。七十歳まで働き続けることが、生き方の規範になってしまわないかと。
 長きにわたって懸命に働いてきたのだから、定年後は趣味や地域活動などに時間を費やして、ゆったりと過ごしたいという人も多いのではないだろうか。
 継続雇用の対象は当然、対象は希望者となっているが、政策の実行段階で、企業内制度を整える雇用主も、当事者である労働者自身も、皆が七十歳まで働き続けなければならないのだと、無批判に内在化してしまうことが非常に危ういのだ。このプロセスにおいては、既存メディアだけでなく、ソーシャルメディアの影響力も計り知れないだろう。
 同様のケースは過去の取材・調査事例にいくつもある。一つ例を挙げると、「女性活躍」政策だ。女性活躍推進法そのものは、女性の管理職登用に絞ったものではない。だが、メディア報道などを介して社会に浸透していく過程で、女性に「産んで、働いて、管理職に就いて活躍する」というたった一つの生き方を押しつける事態を招いてしまった。
 指導的地位に就くのとは別の働き方で、自身の能力を発揮したいと考える女性は少なくない。労働の現場では女性登用の数値目標を達成することに躍起になるあまり、”数合わせ”の登用という問題も生じている。自ら選んで非正規職で働いている女性や、家事、育児などの無償労働にやりがいを感じて歩んできた専業主婦の中には憤りを露(あらわ)にする人が多く、アイデンティティを失う人までいた。
 そうして七月刊の『夫婦幻想――子あり、子なし、子の成長後』である。伝統的な性規範や性別役割規範に囚(とら)われ、「幻想」に陥ってしまう現代夫婦のありようについて、一人ひとりに最長で二十年に及ぶ継続的なインタビューを行い、具体事例を挙げて考察している。数ある見せ場の中でも、現実の世界で夫、妻を演じる男女の姿は圧巻だ。「事実は小説より奇なり」を体現した作品でもある。
 

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