高橋 久美子

第14回
ロンドン【前編】

エッセイ集『いっぴき』(ちくま文庫)も絶好調、また絵本翻訳でも注目を集める作家・作詞家の高橋久美子さんの連載コーナー。彼女にしか紡ぐことのできない言葉たちで、日々の生活を鮮やかにエッセイや小説に仕立てます。〈作家・高橋久美子〉の新しいスタートを告げる連載は毎月第4水曜日の更新になります。

 
 地元に帰っても基本やることがなかった。みっこと、ゆっちゃんと、大型ショッピングモールに集合して映画を見て、フードコートでご飯を食べて、ドトールでコーヒー飲んで旦那の悪口と子育ての話を聞くだけだ。美月は話を聞いている間中早く東京に帰って単館でしかやってないフランス映画を一人で観ていたかった。高校時代の先生の話はもう飽きたし、隣のクラスの誰かが離婚した話もどうでもよかった。東京なんて人の住むところじゃないと言われたって、実際日本の人口の一割が住んでいて、結婚しないのかと聞かれても答えは一年前と代わり映えしない。相槌だけ打ちながら、ときどき向かいのドラッグストアで働く店員の秘めたる才能について妄想したりした。こういう場所にこそ鬼才が潜んでいるに違いない。
 共通の話題は思い出の中にしかなかった。それでも、年に数回この人たちと集まるのはどうしてなんだろうか、と考える。ああ、お盆の時期は親戚にとやかく言われる実家にいるよりましだからか。「!」と頭の中に電球が灯った。
「ちょっとトイレ行ってくるね」
 美月はショッピングモールの白でもベージュでもないのっぺりした床を猫背で歩きトイレマークを探した。周りを見渡すと殆どが家族連れだった。子供を乗せたカートを押す夫婦の多くは自分より年下で、美月は陸に上がったウミガメのようにのろのろ進んだ。
 トイレを済ませて、婦人服売り場で安売りになったワンピースを見ていると、トントンと肩を叩かれた。驚いて振り返ると、そこには、十五年前の面影を残したままの男が立っていた。

「美月……だよな。久しぶり。ははははっ」
 男は、さっと右手を出して馴れ馴れしく握手を求めてきた。それにしてもなんで安売りの服の前で再会だよと思った。
「卓ちゃん? びっくりしちゃった。えっと、何年ぶりだろうね。ロンドンから帰ってきてたの?」
「ははは。そうなんだよね、向こうのデザイン事務所で働いてたんだけど、去年こっち帰ってきてさ。ははは」
 控えめに喋る卓也は知的さと大人の色気をまとった素敵な雰囲気の男性に見えた。でも始まりと終わりに必ず変な笑い声が入る喋り方は昔のままで、それが全てを台無しにしていた。黒のハットをかぶり、細かな刺繍が施された白いブラウスとベストという出で立ちはオシャレすぎてこのショッピングモールの中で明らかに浮いている。よりによってワゴンのワンピースを物色しているところを見られるとは。
「なんだか、美月は綺麗になったね」
「やだな、もう三十四だよ。卓ちゃんも大人っぽくなったね。でも全然変わんない」
 大学時代二年間付き合って、留学したいからと突然ロンドンへ行った人だ。しばらくは頻繁に連絡を取り合っていたけれど次第にその数は少なくなり自然消滅したのだった。今の自分なら休みをとってときどき遊びに行くだろうし、あわよくばそのままゴールインして今頃はロンドンに住めたかもしれない。あの頃はそんな度胸も野心もなかった。惜しいことしたなと思った。
「美月は、今もこっちにいるの?」
「いや、東京で働いてて。お盆だから、帰省して友達とご飯食べに来てたんだよね。この辺、ここしかないじゃん?」
「ははは、そっか、そうだね確かに。ごめんね折角の時間を邪魔しちゃって」
「全然いいの。大した話もしてないし」
「そうだ、魚の旨い店があるんだよね。いつまでこっちいるの? 良かったら一緒にどう? 俺も去年ロンドンから帰ってきたから詳しくはないんだけど、親父に連れてってもらって美味しかったからさ」
「うん、まだしばらくいるから大丈夫だよ。お父さん元気? 一度、一緒にお酒飲んだことあったよね」
「ははは。そうそう、美月は酒強いからさ先に親父の方が潰れたよな。ははははは」
「そんなこともあったねー。懐かしい」
 二人はマイラバの「Hello,Again」オルゴールバージョンが流れる店内でラインを交換し、美月はフードコートの海に戻った。

 二人はラインのおかげで学生の頃のよりも頻繁に連絡を取るようになった。当時SNSがあれば遠恋もクリアできたのかもしれない。最近良かった映画や舞台の話、ロンドンでの生活、仕事のこと、趣味のボルダリングのこと。懐かしい話ではなく〈今現在〉の話だった。自分はこういう友達がほしかったのだと思った。だからと言って、今更また卓也と恋人同士になろうなどとは考えられない。そもそも、恋愛なんて面倒くさいし、踏み込んだせいで奪われる充足感の方が大きいことは何度も経験してきた。こんなことにエネルギーを削がれるくらいなら、チャレンジしてみたいボルダリングやマラソンの大会が山ほどある。そういうわけで卓也が結婚しているのか、していないのか、子供がいるのか、いないのか、彼女がいるのかどうかさえ、美月から聞くことはなかった。同じように聞かれることもなかった。気にならないわけではないが、気にしている自分がバカバカしくて、もっと意識の高いところで接していようと心がけた。
 東京へ帰る前日、駅前のロータリーに集合して美味しいという和食料理屋へ向かった。並んで歩いたとき、右隣の自分より少しだけ上にある肩の感じが昨日のことのようで、〈あの頃〉が一気に押し寄せてきた。ドキドキする感情は、女性ホルモンを上げるのに効果的だそうだ。これは懐かしさに恋しているだけ。一時の気の迷いに違いない。同じ状況を味わっているこの人はどんなことを考えているだろう。自分に好意を持っているだろうか、ということを卓也も今考えていたりするのだろうか。学生の頃より互いに成長した今だからこそ冷静に会えているはずなのに、流暢に喋る趣味や仕事の話は、まるでSNSから流れてくる情報みたいで全く気持ちが読めなかった。
 東京とじゃまた遠距離になってしまうのだしやめとけ、と自分に言い聞かせる。いや、いっそこっちに帰ってくればいい。恋愛はめんどうだけれど、結婚ならありだ。親や親戚ももろ手を挙げて喜ぶに違いない。大体、こんな田舎でロンドン帰りの男が手に入ることなんて二度とない。いや待て、なぜ卓也はロンドンで結婚しなかったのだろう。まあまあイケメンなんだからずっとフリーだったとは思えない。もしかして向こうに恋人がいて、そのうちこっちに引っ越してくるのかもしれない。もしかして一回は結婚していて別れてこっちに帰ってきたのかもしれない。いや、もしかして……
「ついたよ」
 という声で我に返るまで、美月はまた妄想を繰り広げてしまった。

 玄関の水槽の中、伊勢海老の群れがひげだけ動かして最後の時をじっと待っていた。
「美味しそうだろう。ここの魚は全部地物でね、回転も早いから身の締りがいいんだよー。はははは」
「へー。すごいね、おいしそう」
 地元の食について詳しいんだなと思った。大学時代は安い居酒屋ばっかりで、こういう会話はなかったけど、卓也は友人とよく釣りに行っていた。美月も何度かついていったが、調理前の魚を見ても美味しそうとは思えなかった。むしろ自分が来たことで息の根を止められるのだと思うといたたまれなかった。でも出されたら出されたで美味しい美味しいと食べてしまうのだ。
 小上がりになった座敷に靴を脱いで入ると、座卓に向かい合って座る。恵比寿の瓶ビールで小さく乾杯すると、お通しの煮こごりをつまみながら少しの間沈黙が続いた。そのときだった。
「おい、原田! やっぱ原田じゃんな」
 ついたての向こうで、黒いキャップを被ったラッパーふうの男が立ち上がった。
「おいおいおいー。最近付き合い悪いからどうしたんだろうって言ってたんだぞ。ラインも既読になんねーし」
 卓也は、顔を赤らめて、へらへらへらと笑って美月の顔をちらりと見て、すまなさそうに顔をしかめた。
「お、彼女?」
 帽子の男の隣にいた、オバQのTシャツを着た小太りの男がにやりと笑った。すると、ミーアキャットみたいに次々についたてから男が頭をのぞかせ美月を見た。
「いえ、大学時代の友達です。どうも」
 咄嗟に友達と答えたけど、この人達にならそれでいいだろう。元カノという言葉を発するのははどうも好きではなかった。
「へー。俺らは中学からの悪友なんすよー。よろしくお願いします」
 ラッパーが汗ばんだ右手を出してくるので、ついたて越しに隣国の人々と恭しく握手するしかない。にしても、どう見ても同い年に思えない四人組である。体のいろんな所が著しく出たりなくなったりしていた。卓也が随分若く清潔に見えた。
 酔っ払った四人は国境を越えて、無理やりこちらの座卓に座ってきた。頼んでもないのに、「俺らの友情見ます?」とスマホの写真を見せはじめる。
「これが一昨年のクリスマスでしょ」
「こっちが、二年前か三年前の釣り」
 そこには、ブラックバスを持ち上げた卓也が嬉しそうに写っている。
「え、三年前? ロンドンだよね?」
 と、問いかけた卓也の顔は、ブラックバスよりも青ざめて、酸欠みたいにぱくぱくしていた。

【⇒9月更新分につづく】

 

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