加納 Aマッソ

第17回「不快指数100だもの。」

 どうもオチと向き合うのが苦手だ。漫才やコントのネタを作っていても、まるでストーリーに終わりが来ることを予期していなかったかのように、毎回「あ、そうか、これって終わるんか」と慌ててしまう。正直、オチなんてどうでもいい、と思うことも多いが、よくあるやつではダメだと思う自分もいる。どうにか「終わってない終わり」なるものを考案したいが、そんなものはない。オチていないだけだ。味のなくなったガムの捨て時とネタのオチの生み出し方だけは、いつまでたっても心許ない。
 いつもストーリーを書きたいだけ書き、背もたれに体をだらしなく預けたら、「ほれ、最後どないすんねんな」という声が頭から聞こえる。そこから、しぶしぶ、といった体を無駄に装って、続編もないのに「つづく」と打っては、光の速さで消す。ある時は「っていうのは、全部ウソでした〜」と書いて、「売れる気ないならやめろ」という脳内からの鈍い声に「冗談やんか」と言い訳したりする。結局たいていの場合は、せめてそれまでのストーリーを台無しにしないように、立つ鳥跡を濁さずといった心持ちで臨むことが多いが、こうしてこの文章を書いている今も、来たる最後の段落にビクビクしている。
 ネタだけではない。恋愛の終わり方もなかなかよくない。大学生の時に付き合っていた人に別れ話を切り出す時、「なんか、もうええかな」といって、ブチ切れられたことがある。「なんか、もうええかな」というのはかなり本心に忠実だったが、他に好きな人ができた、というよくあるオチセリフを嘘でも言いたくなかったのだと思う。余談だがその人は、怖い話をしようとして「あそこのプール、出るらしいで……」と言い、私が「水が?」と返した時もブチ切れていた。「会話の相性悪いんかな〜」と思っていたが、今考えたら確実に私が悪かった。
 逆の場合もまずかった。勇気を出して告白して「ごめん彼女いる」と鮮やかにフラれた時も、オチセリフを向こうが言ってくれるものだと思って、15秒くらい直立していたことがある。相手はそれを絶望の沈黙と捉えただろうが、私は絶望プラス「ほな。」待ちであった。あの場合、「ほな。」は私が言うべきだったのだろうか? どちらが言うのか瞬時に考え、さらに私だった場合は「ほな……」なのか「ほな!」なのかも考えないといけないのは、ちょっと労力が多い気がする。ただでさえ悲しんでいるのに、そこまで頭回るはずがない。そもそも「ほな。」はオチているのだろうか? フったほうが責任を持ってしっかりオトす、というのは一度誰かにルール化してほしいものである。
 オチについて考えていたら、『銀河鉄道999』のことを思い出した。相方と一緒に暮らしていた頃、アニメのほうにハマって、二人で一気にDVDを借りて40話まで観た。が、そこまで観てもまだ鉄郎が宇宙の知らない星を散策しているのみで、メーテルの正体は一向にわからない。とうとう続きを観るのを諦めてしまい、いまだにオチは知らないままになっている。有名なアニメなので、ろくに観ていなくてもラストだけ知っている人も多く、この話をすると「信じられない」と言われる。しかしどうも聞く気になれない。それは「観る前にオチを言わないでくれ」という気持ちではなく、むしろ今後おそらく観ることはないのだけれど、私が40話まで観たのは、オチを楽しむためだけだったと認めたくないのだ。私は40話分の内容を楽しむために40話まで観た。そうでなければいけない。これは、「メーテルの正体がわからないから観るのをやめた」ことと完全に矛盾しているのだが、これを同じこととしてしまうと、私のネタに対する「オチがよくないからダメだ」なる批判にもちゃんと耳を傾けなければならないような気がしてしまう。そんなことはない。ひとつでも強く心に残るシーンやセリフがあればいい。私は、鉄郎が放った「暑いなあ〜」に対する、メーテルの「不快指数100だもの。」という禅問答のような返しを観られただけでも、このアニメを「良作」と呼んでいい権利を有していると信じている。
 もし、この仕事をやめることになった時も、きっと慌てるだろう。去り際のオチセリフは到底うまくできないだろうから、そんな場面に出くわさないようになるべく続けていきたいものである。 めっちゃつづく

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