筑摩選書

2人の留学生の人生から浮かび上がる、知られざる昭和史!

1933年、冬の神戸。初めて日本の土を踏んだ、二人の青年がいました。「インドネシア人」初の日本留学生たるウスマンとガウス。彼らは日本で、右翼の巨頭・頭山満らと出会い、大アジア主義を学び、アジア各地からの志士と交流を深めながら、インドネシア独立をひたむきに目指しました。その波乱に満ちた人生を、国内外でのフィールドワークと膨大な文献から描き出したのが本書。「親日」と「反日」の間で揺れ動いた二人の軌跡から、知られざる昭和が浮かび上がってきます。ここでは、その序章を一部公開。ご一読を!

「自分の意志で、自費で来ました」
 インドネシア独立の志士に初めて出会った内地の日本人は、「神戸新聞」の記者だった。
 一九三三年一月七日の朝、シンガポールから二週間の船旅を終えて神戸港に降り立った二人の志士は、冷たい風に煽られながら、港から三キロほど離れた小さな宿屋に向かった。
 一一時半頃、女中に呼び出され、恐る恐るドアを開けると、三〇歳前後の二人の紳士が立っている。それこそが先の記者で、そこから四五分間、火鉢を囲んでの英語での取材がはじまった。

「船旅は如何でしたか」
「楽しかったです。でも船酔いしました」
「お名前を教えていただけますか」
「私がガウスで、友人はマジッド・ウスマンです」
「どこから来ましたか」
「スマトラからです」
「あなたがたは自分の意志で来たのですか、それともどこかの組織から派遣されたのですか」
「自分の意志で、自費で来ました」
「日本で勉強するために来たのですか」
「はい」
「ガウスさんは何を勉強されるのですか、そしてウスマンさんは」
「私は医学を志しています」
「私は経済学を学びます」
「大学はすでに決まっていますか」
「まだです」
「日本語はどうですか」
「少し難しいです」
「何年間勉強するつもりですか」
「さあ、情況次第です」
「下宿の方はどうですか」
「東京に着いてから見つけるつもりです。私たちはバタビアにいる友人からの紹介状を持っています」
「どこで教育を受けましたか」
「初等、中等教育は西スマトラのパダンで、高等教育はバタビアで終えました」
「あなたの国の学生の多くは、どの国に留学するのですか」
「オランダです」
「あなたは何故オランダに行かず、日本に来たのですか」
「私たちは日本の急速な発展についてたくさんのことを聞いており、日本で多くのことを学ぶことができると思っています。オランダからは機会が与えられませんでした」
 
 以上は、当時二二歳のモハマッド・マフユディン・ガウスの記憶にある質疑応答を、順不同に並べ直したものである。もう一方のアブドゥル・マジッド・ウスマンは当時二六歳。二人とも同じミナンカバウ族で、古いにしえより外来文化の伝来地であったスマトラ西海岸の開拓地ランタウで生まれ育ち、大都市バタビアで青年期を送るという共通点があった。しかし、同じ船でやって来たのはまったくの偶然で、船中で初めて出会った。
 日本留学を「まったく一人で、誰にも相談しないで決めた」ガウス青年は、同じ志をもった同郷の人がいると知って、さぞ驚いたに違いない。
 本書で彼らを志士と呼ぶのは、二人が並々ならぬ覚悟をもち、荒波を越えて日本にやって来たからである。ではなぜ彼らは、日本への留学を志したのだろうか。

(中略)

 こうして、「インドネシア人」初の日本留学生が誕生した。
 ここでいう「インドネシア人」とは、構成員の想像の中でのみ存在するものであった。「国民」、「民族」と訳されることの多いネーションは、近代になって生まれた「想像された共同体」であり、出会ったことも、生涯出会うことさえもないであろう人びとと自分とを、同じ「インドネシア人」という強い連帯感で結びつける。
 それまでにも南方から日本の土を踏んだ人はいたかもしれない。たとえば鎖国期の出島にはオランダのジャンク船が出入りしていたが、その船員のなかにはジャワ人がいた。しかし、彼らは自分のことを「インドネシア人」とは、決して自覚していなかった。
 そのような意味で、ウスマンとガウスは、先駆者だった。従来の研究は、この二人について、インドネシア留学生としての側面と、後述する日本のアジア主義者との関係性にもっぱら関心を払ってきた。しかし、本書がこれから明らかにしていくように、両者は「親日」と「反日」のあいだで揺れ動きながら、インドネシアの独立をひたむきに目指して壮絶な人生を送ったのである。以下、この二人の軌跡から、インドネシア独立運動と昭和のナショナリズムの相克を浮かび上がらせていきたい。