ちくま新書

オックスフォード大学に伝わる「問いを編集する技術」

知的思考を実践するためには、かみ合った議論は必要だ。それは相手がいればなおよいが、頭の中での議論でも可能である。オックスフォードで実践されているチュートリアルという指導法を再現した『教え学ぶ技術』の序章を公開いたします。ここに考えるポイントがつまっている。

 おそらくはインターネットを通じたSNSなどの発達によるのだろう。匿名性を条件に、自分の意見や考えをネット上にアップするコミュニケーションのスタイルが定着した。さまざまな話題やテーマをめぐって、ときに「炎上」などと呼ばれる現象が起きる。賛否両論で盛り上がっているように見えるが、議論が嚙み合っていない、互いの主張の言い合い、ぶつかり合いのような場面をしばしば見つける。議論が嚙み合うことで、新たな認識の段階に進んだり、自分の見方を相対化することで、より広い視野に立った議論ができるようになればいいのだが、そうならないで終わるケースが少なくない。テレビのワイドショーなどでもそうした話題が取り上げられ、コメンテーターと称する面々がそれぞれに意見を言い合う場合もあるが、そこでも議論が嚙み合わずにそれぞれがそれぞれの主張を繰り広げて終わるという場面に出会う。
 他方で、もっと日常的な、知り合い同士が互いに顔の見える範囲でのことばのやり取り――対面的なコミュニケーション――の場合には、「空気を読む」ことが互いに期待され
る。相手との意見の違いや露骨な対立を避け、相手を傷つけまいと互いを忖度し合うやり取りである。自分の意見や考えを言う場合にも、相手がそれをどのように受けとめるかを慮る、あるいは相手の立場を気遣うコミュニケーションである。友達同士の日常的な会話に留まらず、ときには、学校や大学の授業やゼミなどの「議論」の場でも見られる「空気の読み合い」もある。空気を読み合うことで、対立や論争を生み出すかもしれない、議論の対象となっているテーマについての深い理解に到達できなかったり、異なる意見に対して自分の考えをどのように組み立て直したらいいかといった、自分の考えを相対化する機会を失ったりする。「よい話し合いでした」で終わってしまうようなケースである。
 これらは、一見すると両極端のように見える。だが、コミュニケーションとしては、実は同じところに問題の根がある。いずれの場合も、議論をどのようにとらえ、それをどのように進めていったらいいかという問題が含まれているからだ。
 議論をするとは、どういうことか。よりよい議論にするにはどうすればよいのか。いや、もっとさかのぼって言えば、より生産的な議論を行うために必要な思考力とは何か。それはどのようにしたら鍛えられるのか。この、基礎的とも言える思考力の鍛え方が本書の主題となる。一方の意見や考え方に極端に偏ることなく、なれ合いになりがちな議論の場で自分の考えを明確に示したり、人と違う考え方を露骨に対立することなくうまく伝えたりできるようになれないか。そのためには、どのような思考力が必要となるのか。この基本的とも言える思考力の中核を占めるのが、本書の副題に示した「問いを編集する」という技術である。
 議論が嚙み合わない、極端な意見や主張がぶつかり合う原因の一つは、一見同じテーマについて論じているようでいて、それぞれがそこで答えようとしている問いにすれ違いがあるところにある。問いが共有されていないままいくら議論しても、それが嚙み合わなくなるのは当然のことだ。だが、そのずれがきちんと認識され、意識されないと、いつまで意見を言い合っても、そこから新しい見方は生まれない。生産的な議論にならないまま平行線をたどってしまう。話題を共有しているようにみえても、そこに切り込む問いの違いが明確に意識されていないためだ。
 他方で、空気の読み合いのような議論(話し合い)の場合、一見、意見や考えが一致しているように見えても、そこでは異なる意見や考えの交換によって、新たな段階にまで思考が進まないことがある。その原因は、暗黙のうちに、互いが問いを共有していると思い込んでしまっていることにある。微妙な問いと問いのずれを意識していけば、もうすこし議論が展開していく。ところが、暗黙の問いの共有――より正確に言えば、問いをわかったつもりで同じだと思いこんでいることで、そのチャンスを逸してしまうのである。
 いずれの場合も、鍵となるのは、問いをどの程度明確に意識できているかということである。問いを意識することで、その問いをうまく使いこなしているか、という問いの取り扱い方をメタレベルでとらえることができる。これは、問いの立て方と展開の仕方、すなわち、問いを自在に扱える思考力を身につけているか否かにかかっている。
 本書では、問いを使いこなすための技術(問いをいかに編集するのか)をどうすれば身につけられるかを、具体的に示すことで、この課題に応えていく。

主題(テーマ)と問い――問いをテーマの中心に据える
 
 人と議論する場合であれ、自分一人の頭の中で思考実験的に議論をする場合であれ、議論(argument)をするとき、私たちはあるテーマ(主題)を中心に考える。もっと日常的な会話のレベルでは、話題と言い換えてもよい。そこでのことばのやり取りが、たんにその場での情報や意思の伝達、あるいは楽しみのための会話であれば、そこからの「発展」が期待されるわけではない。それに対し、議論(argument)が必要となるのは、そこに何らかの発展や展開が意識され目的とされているときである。互いの知識や意見や考え方を提示し、それに対する相手の反応を期待し、それに応じて、自分だけでは到達しにくいレベルにまで思考や知識を発展させたいとき、私たちは議論をする(自分だけの模擬的な議論であれば、頭の中で一人でそれをやってみる)。もちろん、そこにはテーマがあるはずだ。何について話し合っているのかを示す、話の中心となる対象のことである。「○○について話し合って(ディスカッションして)みよう」という場合の、○○である。
 あるテーマにアプローチするとき、そこにどのように切り込んでいけばいいか。どのようにそのテーマについて、自分の見解や意見を考え、まとめていけばいいか。それを導き、枠づけるための方法が、「問い」からのアプローチである。あるテーマについて、自分なりに問いを立て、その問いに答えようとすることで、考えを展開していくという方法である。
 たとえば、ある事柄(テーマ)について、自分が賛成(支持する)か反対(支持しない)かという、イエスかノーかというのは一つのシンプルな問いの形である。あるいは、ある事柄(テーマ)について、具体的な例は何か、同じような例は他にないか、という問いも、考えを展開させる手助けとなる(具体化や例証)。他のことばで言い換えるとどう言えるのか(概念化)、とか、どんなことにたとえることができるか(比喩)、なども、ある事柄を別の視点から理解するために役に立つ問いの形である。さらには、ある事柄には、どんな特徴があるのか、その特徴をつかむときに、どんな側面に注目すれば複数の特徴について考えることができるのか、なども、あるテーマを考えていくときの入り口となる問いである。さらに、もっと議論が進んでいくと、なぜそうなるのだろうか、といった原因や理由に関する問いを立ててみると、もっと複雑で高度な議論に発展できる。
 いずれにしても、問いを立てて、その問いを発展させていくこと(ここではそれを「問いの展開」と呼ぶ)が、主題(テーマ)についての考え方を発展させていくときの、考え方のステップとなるのである。それというのも、テーマとなる事柄について、私たちはある程度の知識や情報を持ち合わせているが、その知識や情報を使いこなす上で、テーマについてどのような問いを通して切り込んでいくかが鍵となるからだ。あるテーマに関する知識をうまく使いこなすためには、その知識から発する問いと、その知識が答えとなるような問いの展開が、議論を進める上でのテコの支点となるのである。
 相手がいるときの議論(討論)ばかりではない。たとえば、大学の授業で小論文やレポートを書くとき、卒業(研究)論文を書くときにも、どのように問いを立てるか、どのように問いを展開するかが、思考を発展させる際の重要なステップとなる。授業で小論文の課題が出されたときにも、その課題にどのように答えたらよいかを考える。そういう場合にも、自分なりに、その課題を別の問いの形でとらえ直したり、そうやってとらえ直した問いを展開したりすることで、いい論文が書けるようになる。卒業(研究)論文の場合にも、そもそも自分でテーマを設定するときには、研究すべき問い(research questions)を立て、それを展開する形で論文を構成していかなければならない。学校や大学で学ぶ際にも、問いを使いこなす技術が求められるのである。
 大学などの学びの場だけではない。社会に出てからも、私たちはさまざまな問題や課題(problems)に直面する。問題・課題への解答が求められることもある。その解答が、自分の判断になることも、自分の行動を決めるときの規準になることもある。こういう、さまざまな問題・課題(problems)に出会ったときに、それをどのように考えていったらよいのか。その場合にも、その問題(problems)を問い(questions)としてとらえ直し、その問いへの答えを考えていくことで、その問題(problems)をより広くあるいはより深く理解し、適切な解決策を導くことが可能になる。実社会での問題解決(problems solving)に迫られたときにも、問いの立て方と展開という思考の技術が使えるということだ。冒頭で述べた、コミュニケーションが不毛になるような状況を打開するのにも、問いについての自覚が鍵となる。問いの共有の有無や、問いと問いとの微妙だが重要な違いに目を向けることができる、さらには問いを思考の支点において議論の展開を図る。いかに問いを編集するかによって、不毛な論争や当たり障りのない「話し合い」で終わってしまう、見かけ上の「議論」から逃れる方法が見つかるはずである。学校や大学での学習や研究の場面だけでなく、仕事の場や社会生活の上でも、一面的な見方にとらわれたり、安直に分かったつもりで終わってしまう議論や思考にならないためにも、問いの立て方と展開の仕方を身に付けることは役立つ思考力の要となるのだ。

問いの展開の仕方をどのように身につけ(させ)るか

 とはいうものの、どのように問いを立てるか、さらには立てた問いをどのように展開していけばよいかというと、簡単なことではない。なぜなら、そのような思考の技術を学ぶ機会が残念ながら日本の教育には十分に備わっているようには見えないからだ。
 高校までの日本の学校では、最近取り入れられた「探究」学習のような方法がある。大学までを含め、今では「アクティブ・ラーニング」のような「主体的・対話的な、深い学び」をスローガンにした新しい学習=教授方法も奨励されている。これらの新しい学びでは、生徒同士の話し合いや議論を通じて問題解決をする学習が推奨される。こうした学び方で鍵となるのが、問いの立て方であり問いの展開である。
 ところが、その要となる思考の技術を身につけるための具体的な方法が提示されないまま、あるいは適切な助言が与えられないまま、生徒や学生たちの自主性(「主体的な学び」?)に任せた学習で終わる場面が少なくない。教師からの何らかの助言や指導があっても、そこでどれだけ問いの立て方や展開の仕方が意識され、意図的にその思考技術を身につけさせようとしているかというと、それも十分とは言えない。課題を与え、内容に直接関わることがらについての助言や知識は提供できても、学ぶ側がどのように問いを展開していけば、より興味深い議論になるのか、発展性のある嚙み合う議論ができるようになるのかは、提供できていない。そこにいたるまでの指導力(思考力に直接働きかける教える力)を発揮するのは、そう簡単なことではない。そもそも教える側にそのような思考の技術、さらにはそれを教える技術が十分に備わっているのかどうか。日本の大学でも、教員養成課程でも、そのような指導力を磨くための機会が与えられているかは疑問である。知識の伝達に長けていることと、問いの展開に習熟していることとの間には、教師のスキルとして大きな違いがあるからだ。前者で終わってしまう教師は(大学を含めて)、探究学習のような場面でも、知識の提供で十分だと思ってしまう。知識や情報の集め方や読み取り方には目が行っても、そこで集めた知識や情報を、問いの展開をテコにしてどのように生かすのかには気が回らない。あるいは、プレゼンテーションをうまくやるという結果にばかり目が行ってしまい、その過程で育成すべき思考力(問いをいかに編集するのか)に意識が及ばない。問いの立て方・展開の仕方を学ばせること自体が、学習の目標として掲げられることが十分に意識されているとは思えないのである。
 私自身、日本の大学で教えていたときには、そのようなことを意識し、どうしたら学生たちが、問いの立て方や問いの展開の仕方を身につけることができるかを試みた。その成果の一部が、一九九六年に出版した『知的複眼思考法』という著書である。問いの立て方や展開の仕方をていねいに解説した類書が少なかったからだろう。さいわいこの本は、その後文庫版にもなり、現在でも読まれ続けている。
 この本を書くときには、東大時代の私のゼミでの教え方をベースに、そこで試みたことをなんとか言語化しようとした。複数の学生たちを相手にした「教え学ぶ技術」をもとに、問いの立て方や展開の仕方、さらには一つの見方にとらわれないための思考法を提案・提示した。
 二五年近く前に書いたときのことをいまでも鮮明に覚えている。どうしたら問いの立て方・展開の仕方を、書物(文字)を通じて読者に届けられるように言語化できるか。それにはとても骨を折った。私が新米の大学教師であったこともあってか、わかりやすく言語化することはひじょうに難しかった。実際の大学の授業では、学生たちが自分たちで興味や関心を持ったテーマをできるだけ生かすように、個別の指導に努めた。ところが、授業で目の前の学生たちを相手に指導するのとは異なり、当意即妙のやり取りを文字として再現するのは困難だった。できるだけ具体的に説明しようと努めたし、さまざまな例を使って、文字を通しても理解できるように書いたつもりだ。それでも、隔靴搔痒の感がつきまとった。授業でのやり取りの再現は、残念ながら『知的複眼思考法』では十分にできなかったのである。その物足りなさや限界を感じながらも、当時は類書が少なかったので、不十分ながら出版を決意した。
 当時新米の大学教師であった私も、それから四半世紀近く教師としての経験を積み重ねてきた。さらには、たんなる経験の積みあげだけではない変化が起きた。二〇〇八年からイギリスのオックスフォード大学で教えるようになったことである。そこで出会ったのが、チュートリアルという個別指導を徹底させた、教え学ぶ技術である。
 オックスフォードでは、学部生に対してはチュートリアル、大学院生に対しては、スーパービジョンと呼ぶが、いずれも個別指導を原則にした、学生への指導を中心に教育が行われる。この方法に出会い、それを一〇年以上実践してきたことで、問いの立て方・展開の仕方という、問いを編集する技法をどのように学生に伝えることができるかをさらに経験することができたのである。
 率直に言えば、教えるための技術としては、日本の大学で私が行ってきた方法と大きな違いはなかった。問いの立て方や展開の仕方のこつは、国や言語や大学の違いを越えても、大きくは変わらない。日本での大学教師としての経験を全く変える必要はなかったし、日本のやり方で通用すると感じた。
 ただし、大きく違う点があった。直接学生と議論をする前、そしてその後の教え方=学び方の違いである。そこで経験したのは、日本の大学では(何度か試みはしたが)実行の難しかった、徹底して読んで書くという事前事後の学習を含めて、個別指導の機会を存分に生かすという点にあった。日本の大学では、毎回のように多くの文献を読ませ、課題に答える小論文を毎回学生に課すことはできなかった。授業の時間に、学生たちの問題関心に合わせて問いの展開を体験させることで終わっていたのである。
 本書では、私がイギリスの大学で経験してきたチュートリアルという方法を日本語に置き換えて具体的に示すことで、『知的複眼思考法』では表現できなかった学生とのやり取りを含めて、問いを編集するための技法をできるだけわかりやすく伝えていく。
 

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